蘭塔場跡

   

           

  

寛政谷からみた蘭塔場跡

       

        解説

   

 コの字形の石垣が写る写真は蘭塔場でその意味は墓場のことです。

 1694年4月25日焼鉱窯からの飛び火が折柄の旱天(かんてん)続きに、たちまち燃え拡がり、別子全山を焼く別子大火災になり、山中の主要設備をほとんど焼き尽くし、また、猛火の中逃げ場を失った別子銅山初代元締・杉本助七をはじめとする132名が殉職しました。

 これら犠牲者の霊をまつるために、別子一帯を望める小高い岩山の上に墓所を築きました。

 それが蘭塔場です。

 1916年の別子上部撤退にともない瑞応寺境内に移され、今もそこに安らかに眠っています。

 現在毎年欠かさず盆に蘭塔場で供養が続けられています。

 

          

      感想

 

 この場所に行き最初見たときはただの遺跡と考えていました。

 しかし、調査を進める中で墓所ということが分かりました。

 銅山が開坑し、まだ3年しか経っていないときに起きた悲劇でした。 

 その後、本校近くの瑞応寺を訪れ、305年の時を経た故人に改めてご冥福をお祈りしました。

 

        

 

牛車道からみた蘭塔場

 牛車道から見た蘭塔場が見えます。

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