旧:昭和10年(1935)撮影 別子銅山記念館蔵 現:平成12年(2000)11月25日撮影 |
東平接待館は住友の要人や住友にとって大切なお客様のおもてなしをしていたところでした。東平荘とも呼ばれます。 明治41年(1908)10月に着工し、翌明治42年(1909)5月に竣工し、同年6月1日から昭和43年(1968)の東平坑閉坑までの59年間利用されました。 工費は当時のお金で17,000円でした。 写真から分かるように、東平の他の施設と比べると格段の差があります。 また、屋根に注目すると、冬の雪が落ちやすくするためトタン葺きになっていますが、一見、瓦葺きのような造りにしているところに驚きます。 現在は、接待館の跡は道が横断しており、当時の様子を伺い知ることは難しくなっています。 しかし、松ともみじは当時のまま残され、取材に訪れた日は紅葉がちょうどピークの時で、素晴らしいながめでした。ぜひ、訪れてみて下さい。 |
明治43年(1910)9月28日からは、コーヒーや角砂糖を接待館に準備しました。 そして、来客用としてビスケットや煎茶も準備しました。 さらに、そのコーヒーは新鮮でなければ風味が良くないということで、わざわざ新居浜の接待館に生豆まで準備して、必要なときに豆を運んでいたということです。 なんと、ぜいたくな!! 一般人はコーヒーなどは口にできる時代ではなかったでしょうね。 さすが、接待館です。 わたしも一度泊まらせて欲しかった・・・・ |
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建設当時(明治40年代)の接待館 別子銅山記念館蔵 | |
接待館の中庭 昭和10年(1935)撮影 別子銅山記念館蔵 | 接待館の客間 昭和10年(1935)撮影 別子銅山記念館蔵 |
接待館の中庭は日本庭園風なのかと思っていたのですが、結構当時としてはモダンな造りとなっていますね。 客間の床の間には、電話まであるのには驚きです。 また、銅滴(銅が熔けたときにつららのようになって固まったもの)という別子ならではの置物があり、特にここにあった銅滴は自然のもので大変価値があったそうです。 今でも、新居浜のおみやげとして重宝されています。 ところで、接待館の周りには、スモモがたくさんなっていて、子どもたちがそれを採りに行くと、とても怖いおじさんがいて、見つかるといつまでも追いかけられたそうです。 |
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接待館の客間(床の間) 昭和10年(1935)撮影 別子銅山記念館蔵 | |
東平接待館には川田順や山口誓子(二人は住友の元社員)、そして土井晩翠といった俳人や詩人の方や各界の著名人が訪れました。 東平接待館は東平では最後に撤去された施設でした。 日和佐初太郎さんは接待館の終焉の姿に接し、せつなさをこらえてシャッターを押しました。 |
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東平接待館終焉の姿 昭和43年(1968)9月 日和佐初太郎氏撮影 |
山口誓子先生浜と東平で句会 昭和32年3月10日発行 別子ニュースより |
俳匠山口誓子先生の句碑 昭和34年7月10日発行 別子ニュースより |
山島でなごやかに敬老会 昭和35年11月10日発行 別子ニュースより |
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加重忠利さん 平成12年(2000)11月29日 本校にて収録 |
部屋数はどの位あったのですか? (1分27秒) |
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接待館ならではの特別な料理はありましたか? (0分56秒) |
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井上省二さん 平成12年(2000)11月25日 東平にて収録 |
接待館跡とその周辺について ご案内いただきました。 (1分03秒) |
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