場 所 | 新居浜市市民文化センター |
取材日 | 2000年8月24日 |
時 間 | 19:00〜21:00 |
今回は、旧別子銅山の山を守られており、また銅山峰ヒュッテの経営管理をしておられる、伊藤玉男先生のお話でした。
銅山峰ヒュッテの経営管理をされている |
先生のお話の最初はことわざから始まりました。
「賢者は歴史を語り愚者は経験を語る」ということわざです。
このことわざの意味は、賢者は祖国がどの様に過去から現代までの経過をたどったかを語るが愚者は自分の経験しか語らないという意味だそうです。
そして、本題に入り、銅山稼業のの3条件というものがあることを知りました。
1.良質の鉱石が多量にあること
2.薪炭材(燃料)が無限にあること
3.製品や物質の輸送が便利であることだそうです。
この3条件のお話が終わった後、砂漠の中では鉱業が成り立たないということを知りびっくりしました。
その後いろいろな役所の名称について教えていただきました。しかし、初めて聞く名前ばかりだったので私達は悪戦苦闘しました。
その後もお話は続き広瀬宰平の登場する別子銅山近代化の話に移りました。
明治時代になると別子銅山の近代化が進められ、明治18年(1885年)には、200斤(1200トン)を突破するほどの勢いがあったということを知りました。
しかし、その時期になると、鉱石を焼く燃料が不足していきました。そこで、別子に来たのは伊庭貞剛でした。
伊庭貞剛は、「別子全山を旧のあおあおとした姿にして これを大自然にかえさねばならない」という思いで、まず林学士の籠手田彦三を雇用し、その死後には八戸道雄を雇用し信州の杉を用いて、植林させたということを聞きました。
私達は植林をして元の山に戻していったことは知っていましたが、信州の木を用いて植林をしたということを知り、新たな発見が出来たと思いました。
多くの方が熱心に受講されています |
木の切り方を工夫することで木は再生します |
今回の話では、神宮の森の出来たきっかけも教えていただきました。
そのきっかけは、明治45年の明治天皇の崩御にあったそうです。
御陵は、京都にありましたが全国から東京にも明治天皇を祀る神社を寄進して欲しいという願いから作られたそうです。
その神社が明治神宮で、その周りにある森が神宮の森になったそうです。
お話は、自然への5つの対応についてに移り、下のようなお話をしていただきました。
1.プレザベーション=放置
2.プロテクション =防御
3.コンサベーション=保全
4.リストレーション =復元
5.リハビリテイション=回復・再生という5つの対応があることを知りました。
先生は最後に、「伊庭貞剛の造林計画により、植林された木々は早いところで開坑前にまでの植相へ向けて、自らの力で盛んに更新を続けている」とお話になっていました。
私たちは、今回の先生のお話を聞きして大変感銘を受けました。
それは、今まで学習を積み重ねてきましたが、私たちはまだまだ知らないことの方が多く、別子銅山の歴史の深さを改めて認識することができました。
しかも、先生のお話はとても分かり易くとても勉強になりました。
現在、私たちは東平を中心にホームページを作成していますが、今日の学習を通して、伊庭貞剛を中心とした環境問題について取り組もうと思います。
竹内 教朗