西暦 | 年号 | 経歴 | |
1853 | 嘉永6年 7月 |
島根藩士塩野鉄之丞の長男として誕生 | |
1862 | 文久2年 | 父鉄之丞死去 門之助10歳 | |
1867 | 慶応3年 5月 |
祖父園兵衛から家督相続(18石3人扶持) | |
1870 | 明治3年 | 藩校修道館で、語学(仏語)修行を命ぜられる | |
1874 | 明治7年 | 外務省辞職 | |
1月 | フランス人技師ラロックの通訳として住友雇い入れ。 | ||
1876 | 明治9年 2月 |
ラロックの「別子鉱山目論見書」を翻訳 | |
4月 | 住友の私費留学生としてフランスに出発 | ||
6月 | パリ到着、理数系の基礎学習を開始 | ||
1877 | 明治10年 10月 |
サンテチェンヌ鉱山学校予備校入学 | |
1878 | 明治11年 8月 |
サンテチェンヌ鉱山予備検査合格、26歳 | |
11月 | サンテチェンヌ鉱山予備検査合格、26歳 | ||
1880 | 明治13年 8月 |
サンテチェンヌ鉱山学校卒業以後14年まで鉱山の実地修行 | |
1881 | 明治14年 12月 |
フランスから帰国 | |
1882 | 明治15年 2月 |
別子鉱山技師長 | |
9月 | 惣開新田で小高炉建設着手 | ||
10月 | 別子鉱山技手となる | ||
12月 | 工部省へ惣開製錬所の建設願出願 | ||
1884 | 明治17年 5月 |
工部省から惣開製錬所の建設許可 | |
12月 | 惣開製錬所でピルツ炉建設着手 | ||
1885 | 明治18年 10月 |
「惣開未来の計画に付伺」と題する上申書提出 | |
1886 | 明治19年 5月 |
惣開にピルツ炉完成 | |
6月 | 溶鉱炉研究のため自費で欧米出張 | ||
1887 | 明治20年 6月 |
帰国、惣開の中央製錬所構想を上申(新居浜築港、ならびに惣開と山根製錬所の合併) |
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6月 | 惣開水套炉・反射炉の採用 | ||
6月 | 上申書が採用されず辞職水套炉・反射炉当の採用を指示して別子を去る(35歳) | ||
10月 | 足尾鉱山に就職 | ||
1888 | 明治21年 1月 |
伊庭貞剛宛にベッセマ転炉の採用と別子帰山懇願 | |
4月 | ピルツ炉改造をめぐり鉱長木村長兵衛と対立、辞職 | ||
秋頃 | 足尾鉱山再就職 | ||
1890 | 明治23年 5月 |
「日本鉱業会誌」に選鉱に関する論文発表 | |
9月 | 広瀬満正へ別子帰山取り計らい願い提出 | ||
11月 | 「日本鉱業会誌に論文」「銅の「ベスマーリング」」発表 | ||
12月 | 本山製錬所に水套炉8座を設置(ピルツ炉の全廃 | ||
1891 | 明治24年 2月 |
米国パロット鉱山のベツセマ転炉視察 | |
3月 | 広瀬満正へ別子帰山を懇願(年末まで猶予の後) | ||
9月 | 足尾大水害で妻子を亡くす(10月21日広瀬満正へ見舞の礼状 | ||
1892 | 明治25年 | 製錬課長となり、ベッセマー転炉の建設に着手。 | |
3月 | 伊庭貞剛宛に別子銅山帰山を懇願。 | ||
6月 | 広瀬満正宛て、足尾退身はベッセマー転炉完成まで不許可。 | ||
1893 | 明治26年 5月 |
ベッセマー転炉完成、11月26日から操業開始。 | |
1894 | 明治27年 10月 |
足尾銅山辞職。 | |
1895 | 明治28年 1月 |
別子鉱山再就職、2月23日設計部長となる(43歳) | |
1896 | 明治29年 3月 |
熱田マサと再婚。 | |
1897 | 明治30年 1月 |
設計部長を免じ、1月26日四阪島事務所工事専任、1月26日設計部員兼務、3月11日東延・第3通洞機械設置工事兼務 | |
1898 | 明治31年 9月 | 四阪島事務所長となる。 | |
1899 | 明治32年 | 当吹炉の開発(間吹とペッセマー転炉の折衷) | |
1900 | 明治33年 5月 |
四阪事務所設計長となる。 | |
1904 | 明治37年 12月 |
四阪島製錬所完成、翌年1月操業開始。 | |
1905 | 明治38年 12月 |
四阪島落成につき退職。 | |
1906 | 明治39年 | 東京市下谷区中根岸に住居 | |
1908 | 明治41年 | 東京市小石川区高田(現、文京区目白台)に新築。 | |
1933 | 昭和8年 7月 |
死去、享年81歳 |