別子銅山の群像 @

広瀬宰平と伊庭貞剛

−四阪島への製錬所移転をめぐる葛藤−

講師:住友史料館主席研究員
            新居浜市広瀬歴史記念館名誉館長
 末岡照啓先生

日時

2000年9月9日(土)

場所 高齢者生きがい創造学園
時間 10:00〜12:00

 今回から3回シリーズで別子銅山のことについて理解を深めるため、高齢者生きがい創造学園で行われる生涯学習講座に参加する機会をいただきました。
 そして、多くの方々の中に混じって私達も勉強させていただきました。
 その第1回目の講師の先生は、住友史料館の主席研究員であり、新居浜市広瀬歴史記念館の名誉館長さんである末岡照啓先生でした。
 末岡先生は、広瀬宰平と伊庭貞剛の二人の関係を軸に「四阪島への製錬所移転をめぐる葛藤」と題してお話くださいました。

講師の末岡照啓先生 多くの方が熱心に受講されました
 講師:末岡照啓先生  多くの方が熱心に受講されました

 まず最初に広瀬宰平伊庭貞剛の生い立ちについてお話が始まりました。

 広瀬宰平は近江国(今の滋賀県)に文政11年(1828)に生まれました。
 宰平はわずか9歳で別子銅山に働きに来ました。
 その後、勘場や管理職を経て慶応2年(1866)に別子銅山の支配人になった人です。
 その支配人在任中に別子銅山の近代化を推進したことは有名です。

広瀬宰平と伊庭貞剛の関係について 別子銅山にかかわる群像
 広瀬宰平と伊庭貞剛の関係について 別子銅山にかかわる群像

 伊庭貞剛も宰平と同じ近江国(今の滋賀県)に弘化4年(1847)に生まれました。
 最初は司法官をしていましたが、明治12年(1879)司法職を辞め、その年に住友に勤務し始め大阪本店支配人などを歴任しjました。
 明治27年(1894)に別子に大改革を起こすため単身別子銅山に来ました。
 その年、別子銅山支配人の職に就きました。明治33年(1900)には2代総理事となり植林事業を興したことで有名です。
 実はこの二人には意外な接点があったことを知りました。
 それは、広瀬と伊庭は同じ家で生まれていたということです。これを聴いたときは大変驚きました。

伊庭貞剛の生まれ育ったのは情報の交流地であった 伊庭貞剛の誠実さをあらわすエピソード
伊庭貞剛の生まれ育ったのは情報の交流地であった 伊庭貞剛の誠実さをあらわすエピソード

 次に話題にあがったことは、煙害問題の発生です。
 明治22年(1889)にはそれまで口屋にあった新居浜分店が惣開に移され明治26年(1893)に開通した鉱山鉄道の全通により山中での製錬量を減らし、その分を惣開で引き受けるようになりました。
 明治28年(1895)には惣開の製錬量が別子山中にあった製錬所の高橋を抜きました。
 しかしこの時期にくると山根製錬所の近辺では煙害問題が発生し周辺の田畑山林に被害をもたらせていました。
 そうしたことによってまき起こったのが四阪島への製錬所移転計画でした。

広瀬宰平と宰平に関わる人間関係を説明されました
広瀬宰平と宰平に関わる人間関係を説明されました

 四阪島は、この移転計画の前は燧灘に浮かぶ無人島でした。
 しかし、伊庭はこの土地を当時のお金で9300円で買い入れ、そこに製錬所を建設しようとしたことによって広瀬と伊庭の葛藤が生まれました。

 <参考資料>
 明治37年(1904)12月、四阪島製錬所全施設が総工費170万円余りを持って完成し、翌年の明治38年(1905)1月から本格操業を開始しました。
 (当時、別子銅山の年間収入が約100万円の時代でした。)

伊庭貞剛は人々との意志疎通を図ろうとした  広瀬の意見は煙害や苦情が多くなり、煙害はこれ以上に広がると言って反対しました。
 しかし、伊庭は、広瀬の意志に反して断固計画を推進していきました。
 私は、広瀬が伊庭に送った反対文は正しい行いだと思います。
 だけど、もし、四阪島に移さず他の所に移していても同じように煙害は起こっただろうと思います。
 別子銅山が他の鉱山と違ったのは煙害や鉱毒水に対する対策が早かったからだと思います。
 どうしてこんな早い対応ができたのかこれからの学習で考えていきたいと思います。
伊庭貞剛は人々との意志疎通を図ろうとした

 竹内教朗

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