別子銅山の群像 A

塩野門之助と岩佐巌−山根製錬所設立をめぐる葛藤−

講師:住友史料館主席研究員
            新居浜市広瀬歴史記念館名誉館長
 末岡照啓先生

平成12年10月14日
場所 高齢者生きがい創造学園
時間 10:00〜12:00

 別子銅山の群像2回目の取材のため、高齢者生きがい創造学園を訪れ学習会に参加させていただきました。
 今回の演題は塩野門之助(しおのもんのすけ)と岩佐巌(いわさいわお)の山根製錬所設立をめぐる葛藤でした。

講師 末岡照啓先生 今回も多くの方が受講されました
 講師:末岡照啓先生  今回も多くの方が受講されました

 塩野門之助は、島根県に生まれました。

 別子銅山に来るまでは、外務省に勤めていました。

 門之助は藩校に通っているときにフランス語を学習していたこともあり別子に来て最初の仕事は、当時フランスから来日していたルイ=ラロックの通訳として働きました。

 その後住友の私費留学生となり理数系の勉強をしパリのサンテチェンヌの鉱山学校に通いました。

 帰国後は技術長などを歴任しました。

 しかし途中上司との意見の違いから足尾銅山で働いたりもしています。

 しかし最後は、別子銅山に戻り四阪島製錬所の建設を指揮しています。

 門之助は、この四阪島製錬所の建設の指揮を最後に引退し昭和8年(1933年)に81歳でなくなっています。

当時、化学は舎密(せいみ)(chemistryから由来) 溶鉱炉も実用化へ向けて努力の積み重ねがなされます
当時、化学は舎密(せいみ)と呼ばれた(chemistryから由来) 溶鉱炉も実用化へ向けて努力の積み重ねがなされます
塩野門之助は新たな構想を考えた 別子銅山の鉱石の成分について
塩野門之助は新たな構想を考えた 別子銅山の鉱石の成分について

 岩佐巌は、福井県に生まれました。

 最初は医者になる勉強をしていましたが明治2年(1869)に東校(現在の東大医学部)の第一回東校留学生9人に抜擢されドイツベルリンに官費留学しました。

 岩佐は、ドイツ語を修得しベルリン大学に入り化学の勉強を始めました。

 これが医者から鉱山学に転向する転機となりました。

 明治6年には同国フライブルク大学に入学し同10月には帰国し東京大学試金学と文学部で教授をしました。

 明治18年には東京大学を辞職し翌19年には東京出張中の塩野とともに新居浜に来ました。

 それが岩佐と塩野の初めての出会いでした。

 その年5月から住友で働き始めました。岩佐は山根製錬所の建設を指揮しました。

 明治20年には、塩野の送別会に参加しています。

 塩野がいなくなってからは新居浜製鉄所を建設するなどしましたが、別子の鉄はコストが高く採算が合わないということから住友を辞職してしまいます。

 その後は広島の鉱山買却し製錬所を建設しようとしたが断念しました。

 次に契島製錬所を建設中でしたが途中で病死してしまいました。

湿式製錬のしくみについて 鉄や硫酸製造に向けて挑戦が行われたが・・・
湿式製錬のしくみについて 鉄や硫酸製造に向けて挑戦が行われたが・・・

 今回の本題である山根製錬所建設をめぐる葛藤が起きた理由塩野が進言する中央製錬所論と岩佐の進言する別子の鉱石中に含まれる鉄を使っていろいろな物を作るという論争が原因です。
 中央製錬所論とは、これからは別子だけの鉱石だけではなく他の鉱山からも鉱石を買ってきて港の近くで製錬することをいいます。
 この結果は、塩野らの四阪島に製錬所を移すことで決着します。

塩野門之助の夢は四阪島で実現される 生子(しょうじ)橋は岩佐巌の名前が付いていた!
塩野門之助の夢は四阪島で実現される 生子(しょうじ)橋は岩佐巌の名前が付いていた!
別子ラインの起点となる生子橋 足谷川の清らかな流れとともに岩佐の思いも生きてます
別子ラインの起点となる生子橋 足谷川の清らかな流れとともに岩佐の思いも生きてます

 私は、この両者の争いを見て、二人の住友の繁栄を願う気持ちは同じであることを知りました。
 塩野は、他の鉱石と別子の鉱石を利用して銅の生産量を上げようとする気持ちと副産物の鉄を利用して国のためや住友の利益を考えているということを感じました。
 この二人のように何かの目標のために努力することはとても大切であることを教えられたように思いました。
 私も、今度の作品を自分の納得のいくページにしていく努力をしなければならないということを教えられたと思いました。

竹内教朗

                                         

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