『別子銅山の技術発達史』
講師
別子銅山記念館長 上垣 起一先生
日 | 平成12年11月8日(水) |
場所 | ウイメンズプラザ新居浜 |
時間 | 18:00〜20:00 |
第5回目となる学習講座は、別子銅山記念館の館長である上垣起一さんが講師をお務めになりました。
上垣館長さんは別子銅山での坑内経験をお持ちの館長さんとしては最後の方だとお聞きしています。
私たちは、上垣館長さんにたくさんの貴重な資料をご提供いただいており、大変お世話になっています。
その上垣館長さんのお話ということで大変楽しみにさせていただいていました。
初めは、『別子銅山の技術発達史』とお聞きしてとても難しいのではないかと心配していましたが、大変わかりやすくお話をしていただき、いつの間にか、聞き入ってしまいました。
海外でもご活躍された上垣起一館長さん | OHPを用いて分かりやすくご説明くださいました。 |
別子銅山のはじまりから別子周辺の地質・鉱床、用語の説明、採鉱・坑内排水・運搬などについてお話下さいました。
別子銅山の銅には、硫黄が多く含まれて銅を取り出すのは大変だったそうです。
採鉱は、江戸時代から現在までの発達についてお話くださり、はじめは手彫り、そしてさく岩機がはじめて使われたのが明治24年(1891)でした。
さらに、大正に入って急速にさく岩機が普及し始めたことを知りました。
坑内排水は、明治に入って、電気ポンプが導入されるまで人力以外になく苦労していたそうです。
坑内の鉱石運搬も人力にはじまり、「エブ」と称する葛(かずら)を編んだ籠に、鉱石を入れ背に背負って運搬していました。
その一籠の重量は約20kgであったそうです。明治はじめまで人が一人通れるくらいの狭い坑道を運んでいましたから、その苦労は並大抵のものではなかつたと思います。
そして、別子銅山の採鉱、運搬技術などの中で特に、技術の進歩が著しいのは、終戦後でそれも昭和35年(1960)以降だそうです。
技術の進歩によって採掘量が多くなりました。
でも、地中深く掘り進めるようになると、今度は地熱対策や坑内環境などの新たな問題が浮上してきます。
様々な問題を工夫しながら解決をしていきましたが、地圧現象の「山はね」対策については「策無し」と結論が出てしまい、操業終結に至ったことを知りました。
286年の長きにわたって発展してきた技術もついに自然の力には勝てなくなり、尊い人命を第一と考えその歴史を終えました。
その後、鹿児島にある菱刈鉱山(金山)のビデオを見せていただきました。
そこでは、先人たちが知恵を絞り工夫してきた技術は今も生きていて引き継がれ、役立てられています。
そのすばらしさを今回のお話で知ることができました。
私たちも自分たちの生活の中での知恵を大切にし、さらにそれを引き継ぐことの意味を学ぶことができました。
黒田 美樹