別子銅山の群像 B

広瀬邸をめぐる人々
〜現在の和風建築の原点はいかに造られたか〜

講師:新居浜市広瀬歴史記念館学芸員 久葉裕可先生

2000年11月11日
場所 高齢者生きがい創造学園
時間 10:00〜12:00

 今回は、別子銅山の近代化を成し遂げ、わが国の産業の育成に力を注いだ広瀬宰平の邸宅について新居浜市広瀬歴史記念館学芸員久葉裕可先生の講演会をお聞きしました。
 演題は、
広瀬邸をめぐる人々〜現在の和風建築の原点はいかに造られたか〜でした。

講師の久葉裕司先生
講師:久葉裕司先生

 はじめに、広瀬邸のある上原(うわばら)がどういう土地でありどのようにして広瀬の手に渡ったかという説明がありました。

 その話では、上原は新居浜の中萩(なかはぎ)扇状台地に広がる畑方の痩せ地であったということを知りました。

 そこは、幕末期には長年の水不足で農民は、苦労していたそうです。

 そこで、住友が溜め池を作ろうと計画しました。

広瀬邸周辺の絵図 別子銅山の群像は今回で終了となりました残念です。
広瀬邸周辺の絵図 別子銅山の群像は今回で終了となりました。残念です。


 その池の名前を中の町池(通称亀池高尾池(通称鶴池を築きましたが新田開発は扇状地という悪条件のため失敗してしまいました。

 そこに桑と茶を植えたいという広瀬が住友に願い出たところこれまでの功績によりこの地をいただいたというのがここに広瀬邸が建つきっかけとなったそうです。

 その後、ここには、明治8年(1875)から10年(1877)までの3カ年をかけて新築建家を建設しました。

広瀬邸の立面図(側面) 広瀬邸の立面図(後面)
平成11年(1999)に見つかった広瀬邸の立面図


 その完成した母屋完成で2階を「望遠楼(ぼうえんろう)」と名付け漢詩を読んだそうです。

 「有楼日望煙、賊以記事 新築一楼遺子孫、此楼宣与鉱山存、望煙不啻愛風到、欲報積年金石恩」と読んだそうです。

 この漢詩の中に入っている「煙」とは、別子近代化を象徴した物のひとつの蒸気船「白水丸」のものであるかかまどの煙をたとえて読んだという説もあるそうです。

庭園の下絵図 庭を造ったのは、植木屋治平か清平か
庭園の下絵図 : 庭は平安神宮や円山公園を手がけた植木屋治平によるものか?

 次に話に上がったのが広瀬本邸の上原移転と新座敷の建築についてです。
 
 明治18年(1885)になって宰平は、本邸を移転するために道を補修し移転を開始したそうです。

 翌19年(1886)には、明治10年(1887)に建っていた母屋と移転してきた本邸を移築接続させこれまで本邸のあった金子村久保田(かねこむらくぼた)にあった建造物ほとんどをここに移したようです。

 こうした移転によって上原にあった母屋は、本邸としての風格を備えていったそうです。

 一方の新座敷建設は、明治19年(1986)8月に必要な木材の調達から始まり、10月に住友家出入りの大工の棟梁八木甚兵衛(やぎじんべえ)と相談していたそうです。

 この新座敷は、明治23年(1890)開坑200年祭で接待館として利用するものだったのでいろいろと宰平自ら細かく指示を出したそうです。

広瀬邸の設計図について 明治23年(1890)5月に撮影された広瀬邸
広瀬邸の設計図について 明治23年(1890)5月に撮影された広瀬邸

  その後広瀬邸の改築が行われるのは、明治30年代末に車力の使えない道が中萩村と角野村の境になっていた道を広瀬満正(宰平の息子)に譲られた事により煉瓦塀を建設し、その塀の後ろに新道を建設しました。

 その改築の時に宰平の隠居部屋として西座敷を増築し台所も改築されたそうです。

 この一連の改築は、明治33年(1900)満正の長女が結婚し婿養子をもらったことによって行われたものだったそうです。

次々と久保田から移築されてきた なんとボイラーがあった!左は風呂桶のお湯の調整口
次々と久保田より移築されてきた なんとボイラーがあった!左は風呂桶のお湯の調整口

 この3回にわたる別子銅山の群像の学習会に参加したことで、今まで知ることのできなかった様々な人たちの生き様、別子銅山でどのような役割を持って働いていたかということを知ることができました。

 この講座で学んだことを自分の知識としていつまでもとどめていきたいと思います。

竹内 教朗 

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