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別子銅山の坑水処理について

講師:住友金属鉱山(株)別子事業所OB伊藤 浩先生

場 所 新居浜市民文化センター
年月日 2003年(平成15年)9月25日
時 間 19:00〜21:00

 今回お話をいただいた講師は伊藤 浩先生です。

 伊藤 浩先生は住友金属鉱山(株)別子事業所のOBで長年別子銅山の坑水処理にたずさわれていた方です。

 そのご経験を生かして、私たちに詳しくお話して下さいました。


伊藤 浩先生
伊藤 浩先生

坑水とは

 坑水は、鉱石内の銅や鉄などの重金属成分が水に溶け出し、坑内から排出される水のことです。

 これらの水から重金属成分を取り除くことと坑水処理といいます。

 地表面から鉱石を掘り始め、坑道が深まるに連れて排水が問題になってきます。

 浸透水や地下から湧水によって、ある水準まで掘ると、それから先は坑道に水が溜まり採鉱が困難となります。

 それは繰樋といって木製の手押しポンプを何段にも並べて坑底より排水をくみ上げ江戸時代には別子銅山は水との戦いの歴史でもあると言われています。

 人力によって排水をしたわけで、一時期は坑夫と同じ人数の水夫(水引人夫)がいたと云われています。

 排水の大動脈である小足谷疎水坑は寛政5年(1793年)に開さく着手しましたが、難工事のため中断を余儀なくされ、明治2年(1869年)に再開して、明治19年(1886年)に完成しています。

 掘削年数28年という想像もつかない長い年月を要しましたが、この疎水坑が貫通したことによって、排水関係は飛躍的に改善されたといわれています。

山根排水処理沈澱設備についての説明
山根排水処理沈澱設備についての説明

 時代は明治に移り、明治35年(1902年)に第三通洞が完成し、明治38年(1905年)には第三通洞坑口と、山根に排水処理沈澱設備とこれに伴う、東平、端出場、新居浜間の坑水路が設置されました。

 この第三通洞(八番坑道)以上の坑水は自然流下により排出され、八番坑道以下の坑道は同坑道までポンプで汲み上げ、ともに第三通洞経由で坑外へ排出しました。

 そして寛永谷坑水とともに東平、山根収銅所で収銅した後、新居浜の海中へ放流することになりました。

 これに伴って坑内各所、小足谷、寛永谷の収銅は廃止されました。(小足谷は1部残っています。)

 こうした排水対策によって坑水処理は根本的に改善され、開坑以来の人力による排水は無くなりました。

 現在では、第三坑口前の処理施設はありませんが、山根の排水処理沈殿設備は100年経った今も使用し、構造も当時のままです。

 槽の中へ鉄片を入れ銅を回収していた、最盛期にはこの処理場だけで70名もの人が働いていたといわれています。

 現在は昭和48年休山後第四通洞以下は水没させて、上部各所の坑口は閉塞し中に止水提を設けて中心付近にある竪坑より水を落とし銅山の水を、ほぼ全量集約してこの第四通洞から排出するようにしているとのことです。

 坑水は坑水路を経て山根処理場にて自然沈降により浮遊物質を回収した後、再び坑水路を経て星越処理場に達し、シックナー及び沈降剤を加え、処理した後、瀬戸内海に放流しています。

 第四通洞以下水没させることで、下部の水と上部の水が混入してPHは中性を保っています。

山根排水処理沈澱設備の様子
山根排水処理沈澱設備の様子

坑水処理設備の概要
@坑水処理能力
  15.0m3/分(平均3.0m3/分)
A坑水路総延長 約10q
 第四通同〜山根処理場 3.4q
 山根処理場〜磯浦放流口 6.4q
B処理設備 山根処理場(自然沈降施設)
星越処理場
(PH調整、凝集剤、沈降設備)
端出場緊急処理設備(坑水路異常時対応施設)


小足谷疎水坑の排水処理沈殿設備についての説明
小足谷疎水坑の排水処理沈殿設備についての説明
小足谷疎水坑の排水処理沈殿設備についての説明

 明治30年(1895年)にはこの小足谷疎水坑の水処理を開始しております。

 浮遊物を沈殿させて回収します。いわゆる収銅工場であります。

 処理方法は大きな槽を造り、いく槽にも区切って坑水を滞留させて銅を沈殿させ分離回収する、澄んだ上水放流していました。

 また、小足谷収銅工場より以前に、明治13年(1880年)に高橋排水収銅工場を建設しています。

 附近の銅山川に沈殿函を設置し、鉄棒を投入して沈殿銅の収集と鉱害予防に努力していました。

 このように別子銅山は明治中期より排水処理をしていたわけです。

 第三通洞が貫通した、明治35年(1902年)からの排水はすべて南側から北側へと移行したわけです。

 この、小足谷の坑水処理は、明治39年に廃止されたが、明治12年に再開して、昭和43年(1968年)の東平休止の直前まで処理をしていました。

 別子銅山の坑水処理についてお話をお聞きし、明治の中期からはすでに環境問題に取り組んでいることを知りました。

 坑水処理は地道な仕事ではありますが、大切な仕事です。

 このお話を聞いて自分たちも地道なことからも一生懸命取り組んでいきたいと思います。

片山千種


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