|
|
この写真は四阪島へ
上陸したときの写真です。
四阪島へ行くときは通勤船の
「みのはな」を利用させて
いただきました。
朝7:42、定刻に港を出ました。
四阪島では工事が始まったこともあり
「みのはな」はほぼ満員状態でした。
およそ40分の船旅でした。
帰りは水運搬船の
「みのしま」で帰りました。
その水運搬船は水を500t以上
積みこめるそうです。 |
この写真は上陸後、
港を撮った写真です。
私たちが渡った島は
主に工場側(家ノ島)と
産業遺産が数多く眠る側(美濃島)
があり、2つの島の間は埋め立てられ
1つの島のようになっています。
四阪島の由来は
島の周りにある4つの島から
成り立っています。
水が出ないため飲料水や
工場用水としては一日約1000t
(日に500tずつ2回)
新居浜から旅客兼水運搬船で
運んでいます。
|
|
|
ここは郵便局跡です。
今はもう利用されていませんが
当時は島と外とを結ぶ大切な
役割を担っていたのだと思います。
現在残されている建物は唯一
住友鉱山のものではなく、
(財)郵政互助会(当時)
によるものです。
|
この写真は四阪島の
事務所の写真です。
ここで四阪島ご出身である
後藤 美廣さんから島の歴史について
ご説明いただきました。
事務所の周辺には砂利のかわりに
からみが使われていました。
内部には青い目の人形や
海底ケーブルの見本など
様々なものが展示されていました。 |
|
|
ご説明の後、後藤 美廣さんに
四阪島について質問を
させていただきました。
その中で印象的だったことは
赤茶けた工場側にも植林をして
緑を増やそうとしていること、
四阪島の海岸にはゴミが
散乱していますが
これらをいつまでも
放っておくわけではなく、
いずれすべてそれらのゴミをなくし、
海岸をきれいにするということ
なども分かりました。
やはり環境問題を
良く考えていることでした。
また、当時、交通事故は
無かったということも驚きでした。 |
四阪工場の事業は
主に酸化亜鉛製造です。
右のビンに入っているものが
酸化亜鉛焼鉱
(自動車のボディ等、
亜鉛メッキをした
鉄スクラップから
取り出されます)です。
左側のペレット状になったものが
酸化亜鉛焼鉱です。
(亜鉛63%鉛7%程度)
また、それをだんご状に
固めたものが酸化亜鉛団鉱です。
まだこれらは中間製品で、
兵庫県加古川市の工場に送り、
亜鉛と鉛が生産されます。
|
|
|
この写真は四阪島病院跡です。
この病院跡は事務所の
中からでも拝見することができます。
しかし、ずいぶん草木が茂り、
近づくことができませんでした。
この病院も郵便局同様に
今は利用しておりません。
。 |
ここは日暮別邸です。
住友家の別荘や来客用の
接待館として使われていました。
現在はもう、使用されてはいません。
二階にはそれぞれの部屋があり、
過去の情景を思い浮かばせる
ようなものでした。
地下へとつながる
らせん階段を下りると、
ビリヤードをする部屋なども
ありました。
他にも古い絵などもありました。
|
|
|
日暮別邸内部の様子です。
ここは主にこの別邸の中央に
位置していて、
暖炉があり、
その上には絵があります。
ここで休息をとっていたと
考えられます。 |
これらのベットは他の部屋にも
まだいくつかありました。
この部屋の窓からは四阪工場の
家ノ島もみることができます。
作りも西洋館風でした。
|
|
|
ここがビリヤード場です。
ここで家長さんたちの
遊技場のようなもので
このビリヤードをたくさんの方達で
楽しんでいた様子を
伺い知ることができます。
。 |
ここは社宅跡です。
今はもう、だれも
住んでいる人はいません。
新しい建物ですが、これらの場所も
四阪島の産業遺産としての
価値があると思います。
そして、ここの道を奥に上がっていくと
小学校と中学校があります。 |
|
|
給水タンク跡です。
この給水タンクの中には
海水と真水が
貯められており、社宅などに
供給されていました。
今現在は跡となってしまっていますが
このタンクは四阪島の原動力に
なっていたことだと思います。
|
ここは四阪島小学校です。
小学校のは中学校跡とは違い、
教室の内部まで残っていました。
中には授業を行っていたという
面影も見られるようでした。
しかし、中を拝見することが
できた場所は1年生の教室と
2年生の教室だけでした。
その他の教室は老朽化のせいで
拝見できないのがとても残念でした。 |
|
|
四阪島小学校にある
ジャングルジムです。
今では中に様々な植物が生い茂り
まさしくジャングル状態ですが、
学校から人が
いなくなった長い年月を
感じさせてくれます。
ずいぶん崩壊が進んでおり、
1・2年生の向かい側の校舎は
屋根が落ち込んでしまって、
すごく残念に思いました。
|
このピアノは1年生の
教室にありました。
今のピアノとは形が
違っていましたけど、
これらのものが
残っていることで、
当時の様子を
想像することができます。
黒板、木のいす、机など
当時の面影が
そのまま残されていて、
時間が止まったようです。 |
|
|
ここは四阪島中学校跡です。
小学校のすぐ隣上部にあります。
中学校の跡は小学校の跡よりも
あまり残っていなかったのが
残念ですが、
門柱にはくっきりと、
学校名が刻まれていました。
これからもずっと
残っていてほしいです。
|
四阪工場への入口で
記念写真を撮りました。
門柱がカラミレンガでできています。
写真左側の男性が
今回四阪島取材の
お世話をいただいた
住友金属鉱株式会社別子事業所の
石川 勝久さんです。
四阪島取材にもご同行下さいました。
写真右側の男性は本校の
宇和 上正校長先生です。
また、その左隣が、四阪工場に
お勤めで、四阪島ご出身の、
後藤 美廣さんです。
島についての
ご案内をいただきました。 |