煙害克服への挑戦


 100年前、私たちの郷土の山は公害と伐採により荒れ果て、自然が崩壊状態となりました。
 そこへ、台風により大雨が降り、
山津波となって多くの人々の生命を奪いました。
 犠牲となった多くの命を教訓として、自然を取り戻すため、公害と闘うため、先人たちは血のにじむような努力を積み重ねました。
 そして、とうとう
自然を取り戻し公害を根本から解決し、現在の私たちの緑豊かな自然環境を築き上げてくれました。
 さらに、
リサイクルへと未来に向けた取り組みも行われています。
 
100年にもおよぶ郷土の先人たちのすばらしい知恵と努力の歴史をご紹介します。
 これからを生きる私たちは、その先人たちの知恵に学び、どのように行動すればよいでしょうか。
 
いっしょに考えてみませんか?
 まずは、
下の各アイコンをクリックして、その歴史を体験して下さい。


煙害とは  煙害がなぜ、どのようにして発生するのか、そのしくみについて説明しています。
←黄銅鉱:別子銅山筏津坑、海面下477メートルで採取したもの。銅品位17パーセント。   別子銅山記念館所蔵
山のくらし  今から300年前、海抜1000メートルの山中に突如出現した大都市。
 狭い渓谷に最盛期には
1万人を越える人々が住み、松山に次ぐ愛媛第2の人口を占めていました。
 したたかに生きた先人のくらしを現在の様子とオーバーラップさせながら、ご紹介します。
←愛媛県別子山村の旧別子銅山地区の今と昔の様子。  明治14年(1881)撮影 別子銅山記念館所蔵 
山での製錬  死と隣り合わせの「採鉱」。
 火との戦い「
製錬」。
 男が45s、女が30sの粗銅を背負って険しい山道を「
運搬」。
 山での厳しい製錬の様子をご紹介します。

 
←江戸時代の銅製錬を再現した模型。 マイントピア別子の観光坑道内に展示されています。
伐採と煙害の果てに  樹木の伐採、煙害による自然の崩壊が進み、山は一面に荒れ果て地肌が見え一面、赤茶けた世界となっていきました。
 ある日、その山に台風が襲いかかり、恐ろしい
山津波となって人々を飲み込んでいきました。
 今に生きる私たちに大きな教訓を与えてくれます。
←山根付近の別子鉱山鉄道下部線の今と昔(被害状況)。  明治32年(1899)撮影 別子銅山記念館所蔵
100万本の大植林    「自然にわびて、山をもとのあおあおとした姿にして、
                   大自然におかえししなくてはならない」

 毎年
100万本の大植林を行い、山を自然に帰した一人の男がいた。
 日本で初めて大規模な
植林事業を行った伊庭貞剛(いばていごう)についてご紹介します。
 その功績は、現在の
環境問題への先駆けとなるものです。
←伊庭貞剛  二代目別子銅山支配人(当時)。 明治27年頃(1894) 住友史料館所蔵
山から浜そして島へ  大水害により、山から浜へ製錬所を移しました。
 しかし、煙害の被害が
さらに広がる結果となり、新居浜の田畑は大きな被害を受けました。
 そして、
伊庭貞剛は製錬所を「」へ移す大計画を決断しました。
←惣開全景  金子山から望む今と昔。中央の小山は御代島。  明治39年(1906)撮影 別子銅山記念館所蔵
煙害克服への道  フランス語の一通訳者から住友きっての大技術者となった塩野門之助(しおのもんのすけ)
 
伊庭貞剛の命を受け、四阪島へ日本初の大規模製錬所を設計・建築、完成させました。
 ところが、煙害は新居浜のみならず周辺地域へさらに拡大することとなり、深刻な事態が発生します。
 しかし、先人たちは煙害克服のために立ち上がりました。
 そして、
昭和14年(1939)にとうとう煙害を元から断ち切り半世紀に渡る戦いに勝利しました。
 
日本で初めて公害を解決し、公害克服の原点といえる歴史をご紹介します。
←塩野門之助  四阪島製錬所を設計・建築。          明治期撮影   住友史料館所蔵
克服からリサイクルへ  四阪島(しさかじま)に製錬所が建設され、まもなく100年を迎えようとしています。
 製錬所はその後、新居浜・西条地域に移されました。
 現在、四阪島は産業廃棄物を処理する
リサイクルの島へと生まれ変わりました。
 
工場長さんのお話を交え、現在の四阪島についてご紹介します。
 
←四阪島 私たちがヘリコプターに搭乗させていただき撮影しました。 平成13年(2001)11月15日撮影



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