旧:明治30年代末に撮影 別子銅山記念館蔵 現:平成12年(2000)7月18日撮影 |
第三通洞は東平を象徴するものです。 明治27年(1894)から掘り始め、8年後の明治35(1902)年8月18日午前1時に貫通しました。そして、東延斜坑と連絡しました。 第三通洞の開通によって、東平時代が幕を開けます。 第三通洞の役割の一つは、長い間に溜まった坑内の水を排水することでした。 また、将来、新居浜へ鉱石を運搬する便宜を図ることも目標としていました。 現在、寛永谷と柳谷が交わる地点に、閉鎖された第三通洞口が、高い石垣に挟まれるような形で残されています。 |
工期 |
工法 |
規模 |
明治27年(1894) 〜 明治35年(1902) |
ペルトン式水車を動力とする空気圧縮機による削岩機を使用 |
延長 1818b、 |
別子銅山坑道説明図 |
通洞内には、役局(やっきょく)と呼ばれる施設があり、入坑した坑夫はまずここで仕事の指示を受けます。 坑外には採鉱本部があり、様々な指示を出していましたが、この役局は坑内での採鉱本部といえるところでした。 特に左の写真は「8番役局」と呼ばれる場所で、第三通洞内の約1800メートル入ったところにありました。 役局の名前の前に付く8番というのは、坑道が上から数えて8番目(8番レベル、略して8L)に当たることから呼ばれています。 休憩所やトイレ、作業服の乾燥室などがあり、昼食や休憩もできる場所でした。 |
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8番役局 昭和30年代に後半撮影 別子銅山記念館蔵 | |
右の写真は、日浦側の坑口である日浦通洞を撮影したものです。 第三通洞東延斜坑底付近から別子山村南方日浦谷に通じる日浦通洞が明治41年(1908)から開さくが始められ、明治44年(1911)2月に貫通しました。 第三通洞と連絡した日浦通洞は延長2020メートルでした。 よって、第三通道と日浦通洞を合わせて3838メートルになりました。 昭和13年(1938)には「かご電車」が導入されました。これによって、一般の人が東平と別子山村へ行き来するのが容易となりました。 それまでは、銅山越えをしなければなりませんでした。 また、この貫通により、端出場(はでば)水力発電所用の水を別子山村の中七番ダムから取水し、導水する役割も持つようになりました。 |
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日浦通洞坑口 昭和37年(1962) 松浦勲氏提供 | |
左の写真は、閉坑直前の第三通洞坑口の様子です。 線路が単線になっているのが分かりますか? 明治期の写真を見ると、複線ですが、左の写真では単線になっています。 これは、大正4年(1915)に、第四通洞が開通し、鉱石運搬がそちらへ移っていったことが原因であると考えられます。 また、周りが石積みされているのは、明治32年(1899)の別子大水害の教訓により、通洞内に水が入らないようにするためでした。 |
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閉坑直前の第三通洞坑口 昭和43年(1968) 原茂夫氏撮影 | |
写真は、東平坑閉坑時の坑口神事式の様子です。 明治35年(1902)から始まった坑内での作業は昭和43年(1968)の東平坑閉坑により、66年間の歴史を閉じました。 しかし、その後、休山までの5年間はかご電車のみ運行され、日浦から来る人々の足として利用されました。 別子銅山の休山と共にその使命を終え、現在に至ってはその姿を変えることなく自然の中に保存されています。 |
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坑口神事式 昭和43年(1968)2月10日 原茂夫氏撮影 |