明治28年(1895) | 11月 | 四阪島を買収登記(家ノ島、美ノ島、明神島、鼠島)購入価格93713円伊庭貞剛 |
12月 | 四阪島製錬場建設出願、農商務大臣榎本武揚へ提出 | |
明治29年(1896) | 9月 | 第一次製錬所建設計画書提出 |
12月 | 四阪島に仮事務所をおく | |
12月 | 建設許可証(大阪鉱山監督署長 小杉轍三郎)を受く | |
明治30年(1897) | 2月 | 建設工事に着工 |
主に各所開さく敷設工事 塩野門之助、四阪事務所長となる | ||
明治32年(1899) | 10月 | 四阪島を住友家長公に譲渡登記(支配人 伊庭貞剛) |
12月 | 自家用電力使用開始、構内点灯 | |
明治33年(1900) | 第二次製錬所建設計画書提出 | |
明治34年(1901) | 1月 | 第三次製錬所建設計画書提出 |
2月 | 四阪島製錬場建設物配置方修正願 | |
2月 | 同上許可 | |
4月 | 四阪島私立住友尋常小学校設立 (吉備浦傭人社宅を仮校舎として開校、生徒数35名) |
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4月 | 第四次製錬所建設計画書提出 | |
6月 | 四阪島製錬工場落成延期願 | |
7月 | 同上許可、建設工事中断 | |
明治35年(1902) | 11月 | 建設工事再開 |
明治36年(1903) | 着工工事進行し基礎より順次建築に移る | |
越智郡漁業権所有者と補償契約締結 | ||
明治37年(1904) | 8月 | 焼鉱窯点火初吹式 |
10月 | 鎔鉱炉火入 試験吹 | |
10月 | 焼鉱窯点火 | |
12月 | 錬銅炉吹入 | |
12月 | 精製炉火入 | |
12月 | 粗銅産出 | |
12月 | 四阪島仮事務所廃止 | |
12月 | 島内火力発電増設により街灯に点灯 | |
12月 | 四阪島郵便局開設。郵便、為替、貯金の事務を開始 | |
明治38年(1905) | 1月 | 四阪島製錬所操業開始。煙害問題発生 |
1月 | 精銅初荷積出式挙行 | |
1月 | 住友病院四阪島出張所開設 | |
2月 | 事務所を西埋立の二区、三区に建設 | |
2月 | 汽船問屋を銅ヶ関より北浦浜(ポンプ室西側)へ移転 | |
5月 | 警察吉備峠派出所完成。請願巡査は巡査部長1名、巡査10名 | |
6月 | 日本海海戦大勝につき全島民による盛大な祝賀会を開催 | |
10月 | 日用品配売所開設(美の浦埋地) | |
10月 | 第一焼鉱所の生鉱庫及焼鉱庫他焼失 | |
明治39年(1906) | 5月 | 日暮別邸竣工す |
11月 | 製錬所落成式挙行 | |
生鉱吹試験操業始める | ||
明治40年(1907) | 5月 | 明神島へ仮小屋700戸建設 一部移住 |
10月 | 鎔鉱炉一坐(4号炉)増設火入式 | |
事務所病院下広場へ移転 | ||
新校舎落成(美の上クラブの所より現在地校舎の大半) | ||
四阪製錬所でコークス製造 | ||
明治41年(1908) | 「リオチント」式湿式収銅法の試験開始 | |
鉱石運搬船70隻 清水運搬船11隻となる | ||
4月 | 邸内社として大山祇神社分霊を奉載安置 | |
病院及避病舎(勝浦)新築落成 | ||
5月 | 娯楽場を新築 | |
煙害問題起こる(周桑郡、越智郡農民) | ||
12月 | 惣開−四阪島海底電線布設。 電信、電話開局 | |
12月 | 北浦に郵便局落成 一般公衆の電信電話の取扱開始 | |
明治42年(1909) | 焼鉱「ストール」次第に鍋焼に転換 | |
1月 | 美ノ浦海岸を埋立(埋地)189戸建設し、明神島移住者を移住させる | |
明治43年(1910) | 1月 | 別子産銅量一千万斤祝賀会 |
11月 | 第一回煙害賠償契約成立 | |
明治44年(1911) | 1月 | 鎔鉱炉(5号炉)増設火入式 |
4月 | 警察定員を巡査部長1名、巡査4名に減らす | |
7月 | 葬祭場を設け僧侶を招聘 | |
10月 | 葬祭場に於て当所事業に対する殉職者の第一回追弔会を執行(これより毎年10月実施) | |
米国鉱業会員男女80余名来島視察 | ||
明治45年(1912) | 11月 | 鍋焼拡張し焼鉱「ストール」全面廃止 |
大正元年(1912) | 7月 | 鎔鉱炉(6号炉)増設、初吹式 |
鎔鉱炉からみ用ベルトコンベヤーを東海岸迄布設し、悉く水砕からみで廃棄することとす | ||
9月 | 幼児携帯労働者(女子)のため小児預所を新設 | |
ドイツ、エルストハルトマン社と塔式硫酸製造設備実施契約締結 | ||
大正 2年(1913) | 鎔鉱炉改修(1,2,3,5号) | |
火力発電機(110KW)1台増設 | ||
第一四阪丸微用予約締結(大正14年度まで毎年契約更新) | ||
4月 | 高等科を併置しい校名を四阪島尋常小学校と改称 | |
5月 | 鍋焼物に7トン起重機を建設し、電極々力により500貫の分銅を吊上げ落下し破砕することとす | |
11月 | 鎔鉱炉(7号炉)新設、初吹式 | |
大正 3年(1914) | 12月 | 鉱煙稀釈装置(6本煙突)は工事落成し、使用始めるも煙害に増大し6年廃止 |
その間、桜井及び立花村に空気分析所を設け測定 | ||
曳船用汽船1隻、忠隈丸と命名 | ||
大正 4年(1915) | 鎔鉱炉(8号炉)増設初吹式(旧炉4炉休停) | |
2月 | かわ吹の鎔剤として始めて伊豆堆肥金鉱(買鉱)を使用 | |
3月 | 小規模の転炉設備を作り転炉法の試験を始める | |
5月 | 電気収塵試験設備を試験開始する | |
9月 | 暴風雨のため埋地防波堤崩壊、家屋30戸流出す | |
11月 | 御大典奉祝式挙行(仮装行列、堤灯行列)社員酒饌料(しゅせんりょう)与える | |
火力発電機(180KW)1台増設 | ||
鎔鉱炉側に小型酸性(ロケット型)転炉2基新設吹入 | ||
大正 5年(1916) | 2月 | 東北炉3炉(9,10,11号)前年工事に着手し、完成し初吹式を挙行 |
8月 | 学校、第2校舎(4教育)増築落成 | |
クレーン設備を施し荷揚人夫を解雇する | ||
大正 6年(1917) | 鍋坐4個増設 | |
特価米及び特価品の販売を実施 | ||
2月 | 鉱夫雇傭及び労役規則、銅扶助規則、下稼人規則の制定をす | |
コットレル収塵装置試験開始 | ||
大正 7年(1918) | 6月 | 全社宅に点灯開始 新居浜火力発電機(750KW)四阪に移設 |
農髄膜炎発生、住民に対し保菌調査及び予防注射を行う | ||
陸揚機機械化1トン〜2.5トン起重機13台増設 | ||
大正 8年(1919) | 9月 | 学校、第3校舎(普通教室2,裁縫室1)増築 |
10月 | 労働時間の改正断行、実働8時間制とし、昼夜2交代制を3交代制に改める。 | |
火力発電機(25KW)2台廃止 | ||
コークス製造中止 | ||
大正 9年(1920) | 3月 | 転炉に於て始めてアノードを製造し電気精銅工場(新居浜)に供給する |
5月 | 暴風雨により被曳船12隻難破し、社宅其他の建物に相当にの被害あり | |
9月 | 新居浜以外の地との電話開始 | |
11月 | 労働者倶楽部3ヶ所設置 | |
11月 | 山頂に於て予州親友会第一会を開く | |
大正10年(1921) | 3月 | 陸揚運搬作業を運輸課より当課で引受ける |
3月 | 販売所から美の浦海岸までの索道完成 | |
4月 | 製錬改良工場に着手 | |
塩基性転炉操業となり、錬銅炉及び精銅炉廃止 | ||
6月 | 精銅炉設備(反射炉によるKS銅)を新居浜へ移転 | |
12月 | 新設備完成に近づき前年末1,710人の在籍が742人に減少 181名探鉱課へ配置転換 | |
大正11年(1922) | 2月 | 製錬大改造に、新工場完成し竣工式挙行 |
10月 | 新居浜一四阪島間 世界最長(19,312m)海底ケーブル敷設完成 (火力発電廃止) | |
塩酸性転炉2基新設、酸性転炉2基廃止 | ||
大正12年(1923) | 試料工場新設 | |
10月 | 事務所(病院下)を12尺準(現浴場)に移転改築埋地社宅を取りこわし運動場にする(これより運動会はここで行うにとになった) | |
明神島へ農家9戸居住し始める | ||
大正13年(1924) | 11月 | 山頂大煙突(現在のもの)完成 高さ149尺(約49m)海面357尺(約118m) |
試験室を病院下より事務所横(現在地)に移転、増築42尺準電車庫新設 | ||
大正14年(1925) | 1月 | 帝国在郷軍人会、住友予州工場聨全分会、工場分会を組織し発表式を挙行 |
警鐘台新設(正門前階段上、59年撤去) | ||
5月 | 焼結工場(グリナワルト式)完成、銅精鉱の焼結吹始める | |
大正15年(1926) | 四阪島改善会設立 |