昭和元年(1926) |
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第一、第三傾斜道完成 |
昭和 2年(1927) |
1月 |
四阪島改善会発表会式挙行 |
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木津川丸 今治−大阪間航路に変更 |
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第一四阪丸 尾道−新居浜間 |
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第二四阪丸 新居浜−四阪−今治 |
11月 |
微粉炭工場完成、全鎔鉱炉を微粉炭吹とす |
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鎔鉱炉約50名整理 |
昭和 3年(1928) |
2月 |
即設電気収塵設備を改修し、転炉排煙全部を処理することとし操業開始 |
8月 |
暴風雨により船頭町の大半流出 |
9月 |
湿式製錬試験設備完成し、試験操業開始 |
10月 |
ペテルゼン式硫酸工場建設に着手 |
昭和 4年(1929) |
7月 |
ペテルゼン式硫酸工場第一期工事(焼結炉排ガス処理)完成操業開始、竣工式挙行(9月) |
8月 |
新居浜−四阪島間、新ケーブル敷設完成送電開始 |
昭和 5年(1930) |
1月 |
鎔ノ式は明治以来中断していたが、本年より毎年行う |
5月 |
ペテルゼン式硫酸工場第二期工事(転炉排ガス処理)完成操業開始 |
5月 |
焼結炉一基増設(4号炉)操業開始 |
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北浦桟橋完成し回漕店移転す(現在地) |
7月 |
第8回煙害協議会(松山にて) |
昭和 6年(1931) |
2月 |
火力発電所廃止 |
5月 |
西巽販売所(現在社員食堂)を拡張し、日暮販売所を統合 |
8月 |
硫酸工場に於て硫酸補給用にアンモニア酸化器を設備し、操業を開始 |
昭和 7年(1932) |
9月 |
硫酸工場拡張起業完成、生産能力360トン/日 |
昭和 8年(1933) |
5月 |
焼結炉一基(5号炉)増設 |
5月 |
硫酸工場増産起業施行 |
7月 |
鎔鉱排ガスをアンモニアによる中和試験開始 |
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集落消火設備増強(測候所北側に丸タンク設置) |
昭和 9年(1934) |
2月 |
焼結炉一基(6号炉)増設 |
3月 |
生鉱吹廃止し純焼鉱吹に移行 |
昭和10年(1935) |
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御住崎に水平引込式起重機一基新設、直接汽船の物を陸揚 |
昭和11年(1936) |
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羽口微粉炭装入をやめ羽口調整は塊炭とする。 |
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四阪島行曳船全廃し、機械船輸送となる。 |
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明神島海水浴場開設(これより毎夏) |
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日暮浴場を西巽頂上に移転 焼結炉鉱煙全部硫酸工場に導入 |
昭和12年(1937) |
4月 |
桜谷公園開設(美ノ上谷、桜数十本) |
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12尺準更衣室及び食堂新築落成 |
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中和工場第一期工事着工 |
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蓄電池式装入電車をトロリー式機関車変更 |
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粗銅冷却装置を新設 |
5月 |
修理工場改築(明治36年以来のもの) |
7月 |
別邸日本間増築、客室、浴槽移転 |
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新居浜−四阪島間の被曳船廃止 |
11月 |
尚志寮新築 |
12月 |
中央倶楽部(2階)及び浴槽(1階)新築落成 |
昭和13年(1938) |
5月 |
亜鉛製錬の試験工場完成、試験始める |
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アンチモニー製錬の研究始まる |
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からみより製鉄の研究始まる |
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純硫酸製造装置すすめる |
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御住崎煙突取こわし(ニッケル工場建設のため) |
7月 |
中和工場設備完成、試験操業開始 |
昭和14年(1939) |
4月 |
住友四阪島製錬所技能者養成所設立 |
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中和寮(職員合宿所)新築 |
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青年学校建家新築(事務所東側) |
7月 |
中和工場完成、式典挙行(10月)煙害問題完全に解決 |
8月 |
ニッケル鎔錬工場完成試験操業開始 |
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煙害を理由とする賠償金及び農林業奨励寄付金は昭和14年までの累計金額合計約730万円巨額に達す四阪島煙害問題解決 |
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第11回煙害協議会において協定書調印 |
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御住崎より新設の小型転炉廃止 塩基性転炉1基増築 |
昭和15年(1940) |
5月 |
事務所焼失 |
昭和16年(1941) |
5月 |
御住崎にNO2ラッフィンクレーン設置 |
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神社移転造営落成(現在地)遷座祭を執行する |
5月 |
事務所新築落成式挙行(現在地) |
6月 |
鉱滓綿製造試験に着手 |
昭和17年(1942) |
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中和工場液化亜硫酸製造開始 |
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新居浜−四阪島間海底ケーブル敷設(第三次)60サイクル1万1000V |
昭和18年(1943) |
12月 |
有信寮焼失 瓦斯 火車新設 3月25日鎔鉱第一号炉にてNI鉱石処理11月19日NI製錬中止 |
昭和19年(1944) |
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酸素工場新設操業開始(35年廃止) |
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CFコットルの煙灰流送用タンク新設 |
昭和20年(1945) |
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電気製塩素操業(25年廃止)HFの瓦断点火車休止 |
昭和21年(1946) |
1月 |
銅鎔鉱炉火入れ(戦後全国で最初) |
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石灰製造(ニッケル鎔鉱炉を石灰石焼成炉とする)22年3月中止 梶島開こん農耕 |
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ニッケル用10段焙焼炉(CuBFの南側)で銅精鉱の焙焼開始 |
3月 |
有信寮再建 |
昭和22年(1947) |
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労働組合33日間の長期ストライキ(鎔鉱炉の火消ゆ) |
昭和23年(1948) |
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測候所閉鎖 故銅単独処理試験始む 操業始める |
昭和24年(1949) |
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ニッケル8段焙焼炉をCuBF南側に移設し、銅精鉱の焙焼開始 |
昭和25年(1950) |
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新ペテルゼン法(硫酸)技術導入 |
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硫酸亜鉛及インゴット鉛製造開始(31年廃止) |
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CF 水砕装置設置 |
昭和26年(1951) |
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半生鉱吹試験開始 |
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硫酸工場の機械修理及分析室焼失 |
4月 |
町立保育園開設 |
昭和27年(1952) |
5月 |
ニッケル鎔煉工場再開、竣工式挙行 |
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越智郡宮窪村から宮窪町となる |
5月 |
生鉱吹起業のため、焙焼炉2炉共休止 |
昭和28年(1953) |
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生鉱吹切替工事 生鉱吹開始 |
昭和29年(1954) |
11月 |
銅焙錬、生鉱吹製錬法に全面転換、全排ガス硫酸工場へ
(焼結工場、中和工場廃止) |
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12号、15号台風による工場、社宅共被害甚大 |
昭和30年(1955) |
2月 |
各浴場及更衣室を12尺準に統合 |
昭和31年(1956) |
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硫酸工場蛇管クーラーからイリゲーションクーラー新設 |
10月 |
学校創立20周年記念式典挙行 |
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看護婦寮下広場に社宅新築 PS転炉起業着手 |
昭和32年(1957) |
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硫酸工場、亀ヶ浦へウルトラフィルター新設 |
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海底ケーブル(22kv用)布設 回漕店桟橋取替 |
5月 |
学校に水族館開館 |
昭和33年(1958) |
3月 |
PS式転炉完成 |
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酸化ニッケル生産開始 |
昭和34年(1959) |
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銅鎔鉱炉 の水砕設備完成、水砕 の製造開始 |
9月 |
四阪生協発足(配給所より引継) |
昭和35年(1960) |
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ニッケル鎔練が鉱と精鉱による混合吹開始 |
昭和36年(1961) |
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硫酸工場新ペテルゼン式に設備改造完成 |
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東海岸へ淡水500tタンク新設 |
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埋地アパート新築完成 |
4月 |
学校公立移管(宮窪町立となる) |
昭和37年(1962) |
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ペレタイザー設置 |
昭和38年(1963) |
2月 |
ベスレヘム銅精鉱の第一船入船 |
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Ni増産のために混合吹とが鉱単独吹に熱風炉試験実施 |
昭和39年(1964) |
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銅製錬増強起業 |
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ニッケル製錬熱風吹込設備 |
昭和40年(1965) |
2月 |
ケミコ式濃硫酸工場新設完成、竣工式挙行 |
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銅製錬日量300トンから380トン熔解に増強 |
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町立火葬場新設(勝浦之避病舎跡) |
昭和41年(1966) |
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ニッケル鎔鉱炉拡張 |
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巽アパート新築完成 |
昭和42年(1967) |
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銅製錬日量380トンから500トン精鉱熔解に増強 |
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強風重油吹 |
昭和43年(1968) |
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銅製錬日量380トン精鉱熔解に増強 |
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ニッケル増産起業施行 |
昭和44年(1969) |
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頂上集落、下段及中段社宅新築(2階建) |
昭和45年(1970) |
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町立公民館開設(美の上クラブ) |
昭和46年(1971) |
9月 |
銅製錬精鉱210トン/日に減産後9月吹卸し |
12月 |
ニッケル精鉱生吹完成(東工場で12月より操業) |
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頂上集落上段社宅新築(2階建) |
昭和47年(1972) |
11月 |
銅製錬1年1ヶ月ぶりに再開(西工場で11月9日火入れ) |
昭和48年(1973) |
10月 |
町立プール開設(山頂) |
昭和49年(1974) |
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16号台風の直撃を受けて淡水揚設備倒壊 |
昭和50年(1975) |
5月 |
ニッケル製錬停止、24年間に亘るニッケル鎔鉱炉の火は消えた |
昭和51年(1976) |
2月 |
銅滓、白ペレット処理製錬開始 |
4月 |
C式濃硫酸製造廃止 |
9月 |
台風17号連日の大雨により各所崩壊、被害甚大 |
11月 |
銅精鉱による製錬休止、7年間に亘る銅鎔鉱炉の火は消えた |
昭和52年(1977) |
4月 |
通勤体制に移行 |
10月 |
酸化亜鉛製造設備完成、操業始まる |
昭和53年(1978) |
2月 |
救急艇(ひぐらし)就航 |
7月 |
酸化亜鉛還元キルンコーチングカッター(削り長さ5m)
設置し、操業の効率化がはかられる |
10月 |
銅滓、白ベレ処理製錬停止 |
昭和54年(1979) |
1月 |
明神島の松枯れ対策実施(ヘリコプターによる薬剤散布) |
7月 |
酸化亜鉛還元キルンのコーチングカッター改造(削り範囲5mより10mに延長) |
昭和55年(1980) |
3月 |
新船みのしま(客船兼淡水タンカー |
11月 |
酸化亜鉛還元キルン操業変更(原料を内装法より外装法へ)し、コストの大巾低減に寄与した |
昭和56年(1981) |
5月 |
老朽化社宅解体開始(美ノ浦社宅より実施) |
昭和57年(1982) |
9月 |
台風19号により新居浜〜四阪間の海底ケーブルに大型船の錨が掛かり、全線が断線 |
12月 |
酸化亜鉛2段キルン法パイロット試験実施 |
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美の浦部落3段目解体 |
昭和58年(1983) |
9月 |
OB会発会式(一島一家と呼称) |
10月 |
酸化亜鉛還元キルン直火バーナー試験実施 |
昭和59年(1984) |
12月 |
四阪島工場操業開始以来初めて完全無災害達成 |
9月4日 |
明見谷集落焼却 21戸 |
10月26日 |
吉備浦集落焼却 56戸 |
昭和60年(1985) |
7月12日 |
吉備峠集落社宅焼却147戸 |
8月6日 |
西日暮集落社宅焼却157戸 但し山中に近い14戸残す |
8月6日 |
巽浦集落社宅焼却11戸 |
8月6日 |
養正寮解体 |
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年間完全無災害 所長表彰(2年連続) |
昭和61年(1986) |
4月 |
四阪工場無医化となる |
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団鉱生産中止 |
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年間完全無災害 所長表彰(3年連続) |
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長期完全無災害 社長表彰(120万時間) |
4月24日 |
日暮集落社宅焼却17戸 |
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日暮集落社宅解体4戸 |
7月8日 |
美の浦集落社宅焼却63戸及び尚志寮 アパート残す |
8月22日 |
糯ヶ岡、東巽集落社宅焼却167戸及び有信寮 |
8月28日 |
北浦集落社宅焼却64戸 |
昭和62年(1987) |
2月 |
ペテルゼン式硫酸工場休止 |
2月 |
ニッケル焙焼工場休止 |
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2号海底ケーブル地絡事故 |
5月 |
完全通勤体制 |