この作品を制作を通して、先人たちの決意、挑戦、努力と苦悩・・・・・・。長い年月を駆けての公害克服へむけての戦いの軌跡を知ることができました。 そして、その勝利の先に見えたのは、今私たちが暮らしている繁栄したまちと自然を取り戻した山々でした。 現在、私たちを取り巻く環境は多くの問題を抱えています。 しかし、郷土の先人たちの取り組みを、少しでも多くの方々に知っていただくことで環境問題解決への糸口にできるのではないでしょうか。 今、私たちに出来ることは何か? それを、今回先人たちの知恵に学ぼうとスタートした活動。 次代の地球が青々としたものとなるよう、今こそ行動に移さなければならないのです。 |
歓喜坑での記念撮影 平成13年(2001)10月27日撮影 |
初めてのホームページ作成 今回、私は初めてホームページ作成に取り組みました。 私がこのホームページ作成で取り組んだ活動は、主に地図の作成とビデオ編集でした。 地図の作成は、加工をして、解りやすく作ることでした。途中でデータが消えたりしたこともあり、とても大変でした。 ビデオ編集では、何分間かに区切ったビデオにテロップを入れ、完成させました。また、聞き取りにくい部分などもあったりして、とても大変でした。ビデオ編集は今回が初めてだったので、先輩に教えてもらいながら編集を行い、苦労しながら作成しました。 ホームページ作成を通して、一つの作品を作るにもいろいろな方々のご協力があったからこそ、この別子銅山のホームページが完成したんだと思いました。 それと、ホームページを作るのがこれほど大変だとも思いませんでした。 この部活を始めた最初の頃は、資料を調べて、調べた資料をホームページに載せるだけだと思っていましたが、本格的にホームページ作成を始めると、実際に現地を取材したり、地域の方々にお話をお聞きしたり、別子銅山関係の資料館などに行き大切な資料などを見せていただいたり、資料をお借りしたりして、資料を集めていったので、思っていたよりとても大変でした。 特に印象に残っている取材は、四阪島取材でした。 普段では、絶対に入れない場所なので、初めてのホームページ作成で、四阪島に行けたことがとても印象に残っています。 四阪島は、当時の風景が今でも少し残っていましたが、壊れていたところも何カ所かありました。ですが、残っていることにとても驚きました。四阪島の風景はこれからもずっと残しておいてもらいたいと思います。 大変でしたが、最後までくじけずに活動できたので良かったと思います。 |
和田 達志 |
数々の出会い(別子山村駐在所、高木 治雄さん) 平成13年(2001)4月3日撮影 |
四阪島を歩いて 今回で2回目のホームページ制作になります。私は資料集めと四阪島でどのような生活をしていたかについてまとめました。 現在、世界規模で問題になっている環境問題ですが、環境問題テーマにホームページを制作しようと考えるまでは、余り関心がありませんでした。 晴れた日には、校舎からもよく見える四阪島は、近くにあって遠い島です。平成13年(2001)4月、私は初めて自分の足でこの島を歩きました。 四阪島についての資料が少なく、最初はどうしようか思いましたが、多くの方に資料を見せていただき、お話を聞くことが出来ました。 当時、煙突からでる白い煙は、工業都市として繁栄している証拠かもしれません。でもこの白い煙は多くの人を苦しめました。この煙害問題を賠償金で解決しようという声のある中、完全に解決しなければ意味がないと四阪島に製錬所を移し、煙害を解決するたに多くの先人達が、長い時間苦労して解決したことを勉強をして行く中で知りました。 また、水が一滴も出ない島で苦しい生活をしていたことも知りました。 現在の四阪島は、時が止まったように静かで、淋しい島でした。あちらこちらに見える痕跡は、人々が生活していたことを教えてくれました。建物は昭和の終わりとほぼ同時に時間を止めたままです。人々が、生活していた歴史を残して行ければ良いと思いました。このまま歴史の中に消えていかないでほしいと思いました。 島の頂上から遙か緑にあふれる赤石の山々を眺めながら、多くの人の苦労によってこのような雄大な景色が見ることが出来るのだと思いました。 このホームページ制作を通して考えたことは環境問題は、私たちの生活だけでなく他の生命にも大きな影響をおよぼし、雄大な自然の恵みを破壊することにつながるということです。先人たちが、元の緑あふれる山に戻そうとしたように、私たちもこの自然を大切に守っていかなければならないと思いました。 このホームページ制作の活動は、普段考えなかった問題に目を向ける機会をくれました。 愛媛大学と共同でのガイドブックの制作、ひうちライオンズクラブ、新居浜市と協力しての産業遺産を紹介するビデオ制作などホームページ制作の他にもさまざまなことをも行っています。このような幅の広い活動ができるのもインターネットという新しい技術と別子銅山という長い歴史を持つ遺産が身近にあったからこそです。別子銅山は休山し歴史を閉じましたが、そこに生きた人々の生活や歴史は、伝え残して行きたいと思いました。歴史の中に消えるのではなく、歴史の中で生きていくような、郷土の自慢として全国に世界に誇れるように残していきたいです。 |
黒田 美樹 |
四阪島船上取材 平成13年(2001)12月31日撮影 |
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年の瀬の迫った大晦日に、漁船に乗って四阪島船上取材を行いました。 冬の海は天候が変わりやすく、取材を何度も取りやめました。 しかし、当日は風もない穏やかな海でした。 普段では見ることの出来ない洋上からの四阪島は、 昔と変わらない要塞のような姿に感動し、カメラのシャッターを切りましたました。 |
近代化産業遺産を3Dで再現! 今回の、ホームページ作成で、三次元仮想空間の再現をしました。 去年の作品で使っていた、3D空間作成用ソフトでは、屋根の形や細かな部分など、作れない形状があり、今回はより建物らしくするため再現用のソフトを探すことから始めました。 新しいソフトには三次元仮想空間に変換できて比較的安い、3DCGソフトを選びました。3DCGソフトを使うと、今までより細かく正確にモデリングできるようになり、三次元仮想空間もホームページの中で見ることができます。仮想空間技術にはVRMLと新しくXVL技術を使いデータを軽くしています。 再現していく中で、分からない所も多く取材の中で教えてもらい、どうしてもわからない場所や設備は、写真や図面を見ながら相談して、できるだけ設計図と同じ建物に再現していきました。 できた作品には、いろいろな装飾品を作っていたけどデータの量がとても大きくなっていたので、ホームページ用に、壁や地面などもなくなり今の形になっています。データを削った作品しか出せなかったのが残念でした。 3DCGソフトを使う時、用語には聞き慣れない言葉が使われていたり、高さ・幅・奥行きの組み合わせからできている空間の位置や感覚をつかむのが難しかったです。 今年は三次元空間を作るだけでなく、取材活動にも参加しました。 初めは話を聞いても、何のことか解らなかったけど、資料で調べたり現地に行って実際に見ていくうち、少しずつ解ってきました。 心に残っている取材は、普段は絶対に行くこのできない四阪島での取材です。島には建物も残っていて、特に日暮別邸では内装や家具など、当時使われていた物がそのまま残されていて驚きました。 取材に行くことで、普段は見ることができない資料や写真を見る事ができたり、いろいろな人達と関わることができておもしろいと思いました。 |
伊藤 和博 |
現地での勉強会(筏津山荘のご主人、近藤鉄男さん) 右手前の方は本校の清水博幸校長先生 平成13年(2001)8月9日 |
様々な別子銅山 広瀬宰平・伊庭貞剛・塩野門之助・・・・・・様々な先人達が築いた私たちの町。 昨年度は別子銅山の生活を重視して勉強したため、「この人達の名前は知っているけれど、何をしたかは・・・・・・」という、かなり曖昧な状態で、私の今年度はスタートしたのです。 今では感謝感激、といった感じです。 たった一人の決意により、様々なことが現実となりました。(それは、HPの中を見ていただければわかって頂けたと思いますが。) きっと、本当に山が大切だと思い、思ったからこそ行動に移すことができたのでは、と思います。 遠い昔の出来事に思いがちですが、私たちは様々な方のご協力により、生の声をお聞きすることで、より近いものに感じることができました。 その結果、別子銅山の知識だけでなく、想いも知ることができたのです。それは、文献や資料から知るには限りのある、一人ひとりの想いでした。 様々な方の話をお聞きしていると、一人ひとりの別子銅山が見えてきたのです。 ある方は苦労話を、ある方は楽しかったことを・・・・・・。その中から、どの方も共通している部分を見つけました。とても嬉しそうに話されていたのです。 「その」別子銅山に近いものになったかはわかりませんが、様々な知識や想いをこのような形にできたことを、とても嬉しく思います。 そして今回は、新たな挑戦とも言うべきことがありました。 まずは、昨年度から愛媛大学との共同学習をさせていただく機会を得て、今年度は「近代化産業遺産を活用した町づくりに関するガイドブック」の作成を行うことになりました。別子銅山のどこを紹介すれば効果的か、レイアウトはどうするかなど、細かい作業が多くありました。 次は、ひうちライオンズクラブ様と新居浜市のご協力により、私たちの活動をテレビ番組にまとめることになりました。その取材のためにご無理を言って、ヘリコプターをチャーターして頂いたりしました。私は飛行機にすら乗ったことがなかったので、ドキドキでした。上から見る新居浜市や銅山は、とても小さく見えました。この中で壮絶な歴史が繰り広げられていたのを思うとゾクゾクしてきます。上からの別子銅山が見れたことは、少し自慢です。 このHP・ガイドブック・テレビをうまく組み合わせて、別子銅山の魅力を多くの方に知っていただきたいと思います。また、ご覧いただくことによって今まで以上に、私たちの活動も知っていただけると思います。 これをきっかけとして別子銅山に触れ、ふるさとのルーツを知ってほしいのです。 自分たちの町の歴史に、目を向けてほしいのです。 これからも次代に継承できるよう活動を行います。 |
小松 洋子 |
初めてのヘリコプターに感激 平成13年(2001)11月15日 |
3年間の活動を通して 私は、3年間この活動を続けて来たことにより多くのことを学びました。 最初、別子銅山については開坑された年を知っていた位でしたが、2年目3年目と学習を進めていくことにより、東平(とうなる)地区や旧別子地区・そして煙害を初めて克服した四阪島等の地を何度も訪れることによって、より多くの知識を身につけることができました。 3年に目には煙害問題について学習しました。取材に出かける度に、私が各施設の説明をしました。 また、ホームページ作成では構成という、ホームページ全体の組立を担当しました。 今年の制作では、計画の段階から多くの時間を費やしました。そして作成し始めてもわからないことが多く、とても苦労しました。 しかし、そんなときには地域の方々のご支援に支えられ、ようやく完成させることができました。とくに、別子銅山の歴史を紹介している施設では、とても貴重で大切な資料をホームページ作成のため惜しみなく提供していただきました。 今年は、漁船をチャーターし四阪島を海上から取材したりととても充実したと思います。 四阪島取材で一番印象に残ったこと、それは、産業遺産の多くがまだ実際に残されていることです。今までの学習で学んだ地域では、解体や整備されるなどで当時の遺産が必ずしも多くの遺産が残されているという現状ではありませんでした。しかし、四阪島に初めて足を踏み入れて最初に見たものは、当時のままの姿で残されていた遺産群でした。一番驚いたのが国宝級という日暮別邸でした。日暮別邸は、完成し約100年を迎えようとしています。しかし、当時使用されていたビリヤード台や座敷などがそのまま保存されていたことにとても驚きました。 私は、この活動を通して近代化産業の多くに触れてこの産業遺産をいつまでも大事に保存していきたいと思うようになりました。この3年間ホームページ作成をしてきたことで今まででは味わうことのできない貴重な体験をし、多くの知識を身につけることができました。その結果部活動内でも一番別子銅山の知識が多くなり部員から信頼されるようになりました。これは、私の高校生活そして部活動で一番の進歩だと思います。私はもう少しで、社会人になります。社会人になっても近代化産業遺産を学ぶ学習を続けて行きたいと思います。私達が始めたこの活動は、まだ始まったばかりです。私が卒業した後もこの活動が続き今度は支援する側として貢献していきたいと思います。 |
竹内 教朗 |
地域の方を学校にお招きしての学習会(福森 豊さん) 平成13年(2001)3月23日 |
私たちの活動は3年目を迎えましたが、今振り返ると、こんなにも人の輪が広がるとは思いませんでした。インターネットを利用して情報を発信する事により、学校を越え、地域を越え、国境を越えました。なによりも、地域の方々の励ましのお言葉や温かい支えは、私たちにとって大切な宝物となりました。 この活動を通して、本当に郷土といえる、新居浜に出会えたのです。 「別子銅山の近代化産業遺産」=「マイン(mine:鉱山)」から出発した学習が、多くの人たちとの「心と心のネットワーク」=「マインド(mind:心)」を生むきっかけとなりました。 先人たちの知恵に学び、インターネットという新しい技術を活用し、21世紀型の郷土史料をつくっていきます。 |
平成14年(2002)年1月14日 愛媛県立新居浜南高等学校 情報科学部 |
自然の中でお弁当(別子山村銅山川にて) 平成13年(2001)8月9日 |