四阪島製錬所

明治39年の四阪島製錬所

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   今: 四阪島製錬所 平成13年(2001)12月31日撮影
   昔:            明治39年(1906)撮影   住友史料館所蔵



 明治28年(1895)伊庭貞剛は四阪島買収に成功し、明治30年(1897)に着工しました。
 そして、
明治37年(1904)四阪島製錬所が完成、翌明治38年(1905)、いよいよ本格操業が始まります。
 ところが、
解決されるはずだった煙害はますます勢いを増し、東予地区周辺にかえって広がる結果となってしまいます。
 しかし、先人たちはこれに屈することなく、日本で初めての公害問題克服に向けた新たな挑戦が始まります。


現在の四阪島
瀬戸内海の要塞

 左の写真のように、四阪島は一見すると瀬戸内海に浮かぶ要塞(ようさい)のような島です。
 またの名を軍艦島(ぐんかんじま)とも言われます。
 水も電気もない島に先人たちは、海底ケーブルを通し、水船で水を運び煙害問題と戦いました。
現在の四阪島  平成13年(2001)8月19日撮影 

公害の拡大

 右の写真は、四阪島製錬所が完成後まもなく撮影されたものです。
 煙突からは、もくもくと煙が排出されるようすが分かります。
 その煙は、毎日の風向きによって周辺各地に流れ、新居浜での煙害と比べ、さらに広域化するという皮肉な事態が発生してしまいました。
完成3年後の四阪島製錬所
完成3年後の四阪島製錬所 
明治40年頃 別子銅山記念館所蔵 
四阪島製錬所の六本煙突
六本煙突

 煙害克服への大きな挑戦のひとつが、左の写真の中央に見える6本の煙突の設備(亜硫酸ガスを拡散させるための鉱煙希釈設備)、通称「六本煙突(ろっぽんえんとつ)」です。大正3(1914)年に完成しました。
 1本の煙から出る煙を6つに分けることにより、亜硫酸ガスを分散させようと考えたためでした。煙突の高さは低く、30メートル程度のものでした。
 ところが、低い煙突を出た煙は島に留まり、かえってガスの濃度が高くなり、操業が難しくなるなど失敗に終わり、大正6年(1917)10月停止されました。
四阪島の六本煙突 大正3年(1914)撮影 
 別子銅山記念館所蔵 
今も残る頂上煙突
頂上煙突

 煙害克服へのさらなる挑戦は、島の頂上に築いた大煙突、通称「頂上煙突」です。
 煙害軽減のために建設され、大正13年(1924)10月に完成、同年12月に使用を開始しました。
 高さは、71.5メートルという大きなものでした。
 建設から80年余り経った現在でも、その姿は四阪島を代表するシンボルとしてそびえ立っています。
 また、周辺を航行する船舶のランドマークタワーともなってます。
今も残る四阪島の頂上煙突 平成13年(2001)12月31日撮影

ペテルゼン式硫酸工場
 そして、煙害解決への大きな切り札が見つかります。
 それは、
亜硫酸ガスを硫酸に転化するという画期的な方法でした。
 
ドイツペテルゼンが開発した方法でしたが、まだ実験的なレベルものでした。
 しかし、先人たちはこの方式を
現実の工場規模で作り上げ昭和4年(1929)ペテルゼン式硫酸工場の第1期工事が完了し、世界初稼働に成功しました。
 
ペテルゼン式硫酸工場は、硝酸を使用して亜硫酸ガスを硫酸に変える方法で、銅製錬のように数種の炉をもち、各炉の排ガス量や亜硫酸ガスの濃度の変動が著しい排ガスを処理するのに適していました。
 その後も、第2期、第3期と工事が進められ、製錬される鉱石に含まれる硫黄の
70%以上を硫酸に転化できるようになり、亜硫酸ガスの量、濃度とも減少することができました。
 現在は、硫酸工場は廃止されています。
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完成当時のペテルゼン式硫酸工場
今:海上からペテルゼン式硫酸工場跡を望む 
 平成13年(2001)12月31日撮影 
昔:ペテルゼン式硫酸工場 
昭和14年(1939)撮影 
別子銅山記念館所蔵 
日本初の公害克服に力を発揮した中和工場
中和工場

 煙ゼロを目指してさらなる挑戦が繰り広げられます。
 ペテルゼン式硫酸工場が建設したことにより、焼結炉と転炉の排ガスを回収して硫酸に転化できました。
 さらに、硫化鉱の選別売却生鉱吹きの抑制などを行い、溶鉱炉排煙中の亜硫酸ガス濃度を0.2%以下に激減させることができました。
 しかし、農民側はたとえ煙が微量だとしても気象条件によっては、山林や田畑に被害がでると主張しました。
 煙害問題を根本的に解決するため亜硫酸ガスの排出を絶無にすることが必要だったのです。
 そして、亜硫酸ガスをアンモニア水によって中和する方法を採用し、莫大な費用がかかるにも関わらず、昭和12年(1937)中和工場の建設に着手しました。
 昭和13年(1938) 中和工場第1期工事完成
 昭和14年(1939) 中和工場第2期工事完成
 排ガス完全処理に成功!
 
中和工場    昭和14年(1925) 別子記念館所蔵

公害克服への勝利

 昭和14年(1939)7月3日13時15分、煙突からの煙が止まりました。
 とうとう半世紀に及ぶ煙害問題に終止符を打つことが出来たのです。
 それは、世界で初めて煙害問題を解決したときでもありました。 
煙害克服後の四阪島製錬所
煙害克服後の四阪島製錬所 昭和15年(1940) 
別子銅山記念館所蔵 


日本の公害克服の原点がここに・・・!!


昭和45年(1970)の四阪島全景
 四阪製錬工場全景
表の写真:明治39年(1906) 住友史料館所蔵     裏の写真:昭和45年(1970) 別子銅山記念館所蔵

上の写真を見比べて下さい。半世紀に及ぶ先人たちの公害との戦いを見ることが出来ます。
建設当時には煙が排出されてますが、解決後は一筋の煙も出ていません。

 煙害問題解決への戦いは日本の公害問題の原点として位置づけることができます。

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別子ニュース 硫酸製造法の花形
昭和30年5月10日発行 別子ニュースより


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住友金属鉱山株式会社 別子事業所 四阪工場 工場長 宇都宮公昭さん住友金属鉱山株式会社 別子事業所 
四阪工場 工場長 宇都宮公昭さん
 

 
平成13年(2001)4月5日 四阪島工場にて収録 
 煙害問題について
                       (1分58秒) 
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7.87MB
  煙害の広がりについて
                       (1分22秒) 
ビデオを再生します 
5.46MB
 煙害が広がった原因について
                       (1分35秒)
ビデオを再生します 
6.34MB
 「六本煙突」について
                       (1分23秒) 
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5.49MB
 ペテルゼン式硫酸工場について
                       (1分29秒) 
ビデオを再生します 
5.92MB
 煙害問題完全解決!
                       (1分29秒) 
ビデオを再生します 
5.99MB
一島一家会会長 田中昌一さん一島一家会会長 田中昌一さん
 平成12年(2000)2月15日 
新居浜市民文化センター観光ボランティアガイドにて収録 
 煙害克服のために その1
 「六本煙突」の失敗について
                       (1分56秒) 
ビデオを再生します 
7.71MB
 煙害克服のために その2
 ペテルゼン式硫酸工場の導入について

                       (1分06秒) 
ビデオを再生します 
4.45MB
 煙害問題への勝利について
                       (2分17秒) 
ビデオを再生します 
9.14MB
住友金属鉱山株式会社 別子事業所 四阪工場 事務主任 高木俊雄さん住友金属鉱山株式会社 別子事業所 
四阪工場 事務主任 高木俊雄さん
 

 
平成13年(2001)4月5日 四阪島にて収録 
 煙害に対する賠償問題について
                       (0分59秒) 
ビデオを再生します 
3.95MB



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