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「遠町深鋪(えんちょうふかじき)」とは、二つの意味からできた言葉です。
一つは、薪(まき)や炭にする材木を伐採すると、その伐採する範囲が近くからどんどん遠くなっていくことと。もう一つは、採鉱が進むにつれ、採鉱する場所が地中深くになってしまうことを意味しています。
その結果、山肌が荒れ果て、緑が失われ一面赤茶けた山肌がむき出しの状態となっていました。
左の写真は、その当時の山の写真と現在の写真とを比較できるように工夫してあります。
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木方焼鉱窯(きがたやきがま)跡
今:平成13年(2001)7月24日撮影
昔:明治14年(1879)撮影 別子銅山記念館所蔵 |
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小足谷(こあしだに)での被害の様子 明治32年(1899)撮影
別子銅山記念館所蔵 |
表:高橋付近の溶鉱炉 明治20年代撮影
裏:被害当時の高橋付近の溶鉱炉 明治32年(1899)撮影
別子銅山記念館所蔵 |
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旧別子の中で最も被害が激しかったのは、見花谷(けんかだに)という目出度(めったまち)付近で華やかだった場所に近い社宅でした。ここでは死者370人を出しそのうち128人が土砂に埋まりました。倒壊家屋は159戸に及び、死者は旧別子全体で513人に及びました。
高橋製錬所(上の写真)は、再建されることなく、新居浜浦にある惣開(そうびらき)製錬所においての一括製錬となりました。
左側の写真は、別子鉱山鉄道下部線の山根付近の写真です。
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表:大水害当時の別子鉱山鉄道下部線 明治32年(1899)
裏:復旧後の別子鉱山鉄道下部線 明治33年(1900)
別子銅山記念館所蔵 |
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「立川(たつかわ)眼鏡橋」は、明治9年(1876)に別子銅山から新居浜に通じる道が立川を通過するようになり、また、立川精銅場が建設されたことにより、この渓谷の両岸を結ぶためにつくられました。
”眼鏡”といわれる意味は、橋の二つの半円部分が川面に移り、円のように見えるところからです。
しかし、大水害の際に橋の橋脚部分に大木が引っかかってしまい、それが堰(せき)となったために、水圧にたえきれず橋が押し流され、倒壊してしまいました。
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立川眼鏡橋の跡 今:平成14年(2002)1月5日撮影
昔:明治14年(1881)撮影
別子銅山記念館所蔵 |
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別子山村の南光院の付近も大きな被害を受けました。
大水害の時、付近に住んでいた人たちは、お寺の半鐘が鳴ったことを聞き(実際には鳴っていなかった)、本堂に上がってきたため難を逃れることが出来たというお話が残っています。
大水害当時の写真と現在の写真を比較してみて下さい。
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銅山川から見た南光院 平成13年(2001)8月9日撮影 |
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大水害で亡くなった方をご供養するために、その方全員(513体)のお地蔵様が作られました。お地蔵様一体一体に亡くなった方のお名前が記されています。
お地蔵さんの大きさは下の写真のように手のひらに乗るくらいの大きさです。
大水害から100年以上経った今日も手厚い供養がなされています。 |
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大水害の供養のために作られたお地蔵様
平成13年(2001)8月9日撮影
高野山真言宗南光院本坊圓通寺(南光院)に安置されています |
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左の写真がその南光院(正式には、高野山真言宗南光院本坊圓通寺)です。
南光院は阿波(現在の徳島県)生まれの修験者・快盛法印によって開山されました。
快盛法印は、元禄7年(1694)の別子大火災後に銅山に入り、別子山中で文盲の鉱夫に文字を教えたり、病人に医薬を施すなど、別子の鉱夫の精神強化に努め、別子山中の住民から慕われていました。
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南光院の入口:平成13年(2001)8月9日撮影 |
南光院は、別子銅山の守護神として南光八幡大菩薩と敬われ、社殿が建立され永くその徳を慕われました。
明治7年(1874)神仏分離と共に円通寺守佛となっています。
左の拝殿は明治12年(1879)に復元されたものです。 |
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大水害当時から残るお堂 平成13年(2001)8月9日撮影 |
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左の写真は、南光院のご住職さんの妻鳥良全さんです。
突然お邪魔したにもかかわらず、快く取材にご協力いただきました。
また、お寺近くの別子銅山の坑口の一つである余慶坑(よけいこう)にも案内していただきました。 |
南光院のご住職 妻鳥良全さん 平成13年(2001)8月9日撮影 |
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城下町水害記念碑
明治三十二年八月二十八日不可意之凶日也此日午前十時暴風撼山雨傾盆終日不止焉入夜則怒雷逞猛威貶辰報九点也国領川堤防決潰洪水氾濫全然耐陥於蒼田変為海之悲境老幼悲鳴今壮者狂奔兮於此乎蕩然破壊本郡金子村大字庄内字城下之上下堤防者実渉於数十間流矢家屋者十有八戸溺死男女及於三十有八員加称田畑二百二十餘町荒蕪村根木材受狼籍千東西域堆積千南北耕作損不可勝算悲惨形状不得意悉遂農民至呈菜色焉此地洪厄何者過哉慈聊記概要祚碑石以貽戒飾於後屍爾
明治三十八年十二月新居郡金子村有志建立 |
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水難の碑正面 平成14年(2002)1月5日撮影 |
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城下町の水害記念の碑(訳)
明治三十二年八月二十八日は、思いがけない悪日である。この日午前十時、暴風が山を揺り動かすほど強く、大雨が盆を覆すほど降り一日中止まなかった。しかも、夜になって、激しく鳴る雷が存分に鳴り渡り、午前八時を過ぎ、九時になると国領川の堤防が洪水のため、破れてその洪水は充ち溢れて、然して桑畑が変じて海となるような世の中の変わり方で、悲しむべき所となり、老人、幼児は悲しみ泣き、若者は対応のため狂い走る。跡形もなくなった本郡の金子村大寺庄内字城下の上下の堤防が壊れているのは実に数十間に至っているし、家の流失したもの十八戸、溺れ死んだ男女 |
(左下に続く) |
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水難の碑左側面 平成14年(2002)1月5日撮影 |
(右上文から続く) |
三十八人に及ぶ、その上田畑二百二十余町が荒れ果てた村になってしまた。立木をはじめとして、東西に乱雑な状態となり、南北には上流、下流地方に土石が堆く積もり耕作を損なうことは、一々数え切れない程である。しかし、惨めな様子をことごとくは書き記すことができない。
農民は飢えて青菜のように血色が悪くなった。この地の洪水の災厄がいかなるものが、これに過ぎようか、これ以上の災厄はない。そこで、少しばかり大事な点のあらましを記し、石碑に書きつけて、それによって、後々に残す、後の世の人を戒しめ訓うるために以上のように述べた。
明治三十八年十二月 新居郡金子村の有志がこの碑を建立 |
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水難の碑後面 平成14年(2002)1月5日撮影 |