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今: 寛政谷焼鉱窯跡から東延を望む 平成13年(2001)10月27日撮影 昔: 明治20年代撮影 別子銅山記念館所蔵 |
伊庭貞剛(いばていごう)は、樹木の伐採と煙害で荒廃し、一面赤茶けた山肌を見て、 『別子の山を荒蕪(こうぶ)するにまかしておくことは、 天地の大道に背(そむ)くのである。 どうかして濫伐(らんばつ)のあとを償い、 別子全山を旧(もと)のあおあおとした姿にしてこれを大自然にかえさねばならない』 と決意したのです。 そして、毎年100万本を越える大植林事業を始めます。 その際、「山肌が荒れていて木が植えることが出来ない」と聞いた伊庭貞剛は、「木を植えることの出来ないところには石垣を造りその中に土を入れてそこに木を植えなさい」と言い、決して屈することなく植林を行いました。 それまでは一年間に約6万本に満たなかった植林本数を、一気に毎年100万本台へと急増しました。 時には、専門技術者を招き、森林計画を作成しました。 当時、「緑化」という考えのない頃、様々な試行錯誤を行いながら日本で初めての大植林事業を展開していきました。 100年後の今、別子の山にはみごとに緑豊かな自然を取り戻しています。 |
主な功績 伊庭貞剛は、経営負担となっていた湿式製錬法、硫酸製造、製鉄事業の廃止を決断しました。 また第三通洞の開さくを指揮し三角坑の排水を実現させ、冨鉱帯の採鉱を可能にしました。 明治28年(1895)には、煙害防止のため四阪島を購入し、製錬所移転を指揮しました。 また、荒涼とした別子全山に自然の緑を取り戻すため、植林事業を興しました。 伊庭貞剛の経歴年表 |
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別子赴任期の伊庭貞剛 住友史料館所蔵 |
※記録が残っていないため数値0の年があります。
植林本数推移 住友林業社史データより作成 |