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左の写真の石碑は、明治23年(1890)、別子開坑200年祭を記念として、当時、住友家の総理であった広瀬宰平が、惣開の由来とその発展を祝って建てました。
書は明治維新三舟(海舟、鉄舟、泥舟)のひとり高橋泥舟が書いたものです。
その際に、皇居前広場に楠木正成銅像が記念として献納されました。
楠木正成銅像は別子銅山の銅で作られています。
ところで、惣開の碑は惣開から別子鉱業所本館が移るときに人夫が誤って倒して破損しました。その際、倉庫に保存され忘れられてしまい、後に伊庭貞剛息子である伊庭六郎が別子開坑250年祭の時に修復再現されました。
現在この石碑は、住友化学工業株式会社の敷地内に移設されています。 |
惣開の碑 平成13年(2001)8月9日撮影 |
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惣開製錬所は、塩野門之助(しおのもんのすけ)がその設計を担当しました。
最初の設計では欧米で実用化されたピルツ炉(煉瓦壁の炉のこと)の採用を決定し、明治19年(1868)に完成しました。しかし、中央製錬所構想の上申書が却下されたことをきっかけに、塩野は住友を去り足尾銅山に就職しました。
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惣開製錬所 明治20年代撮影 別子銅山記念館所蔵 |
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左の写真は、別子鉱山鉄道の下部線(通称、下部鉄道)の終点となる惣開駅です。
山からは採掘された銅鉱石が運び込まれ、山に戻る際には、生活物資を端出場(はでば)まで運んでいました。
途中7つの駅を経て山側の玄関の打除(うちよけ)駅に到着していました。
しかし、昭和51年(1976)の台風で鉄道の線路の被害等から翌昭和52年(1977)に廃止されました。 |
下部鉄道の終点 惣開駅 明治30年代撮影 別子銅山記念館所蔵 |
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右の写真は、惣開製錬所から排出される亜硫酸ガスの様子です。煙は、風に乗り東に向け流れています。毎日の風向きや季節によって煙は周辺に流れていきました。
「煙害」が起こり始めたのは、明治26年(1893)9月頃でした。
煙突から出る亜硫酸ガスによって農作物が枯死する「煙害問題」が発生しました。 |
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惣開製錬所全景 明治中期 住友資料館所蔵 |
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その後、煙害問題による農民側の訴えは続き、除害設備の設置もしくは製錬所の移転が要求されました。
この写真は、新居浜周辺の田畑を連写したもので、煙害を立証するために、煙害調査会が撮影したものでないかとおもわれます。 |
惣開製錬所の煙害写真(新居浜市周辺) 明治30年代撮影
「別子銅山と近代化産業遺産」新居浜市広瀬歴史記念館編より |
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別子銅山の銅鉱石を製錬するときに発生する亜硫酸ガスの問題を解決したいと願った住友が、苦心の末に鉱石を処理し硫酸を回収する技術上の問題を克服して、大正2年(1913)、過燐酸石灰(かりんさんせっかい)の製造を目的に直営肥料事業として開始したのが住友化学工業株式会社の始まりです。
左の建物は、この惣開の地に住友銀行新居浜支店として大正初期に建築され、昭和33年(1958)まで使用されていた建物であり、それを一部改修のうえ利用したものです。
今と昔の写真を比較すると、入り口の屋根の位置が違うことが分かります。
開館時間:9:00〜16:00 休館日:毎週土・日曜日・祝日
見学は事前に連絡が必要です。
住友化学工業株式会社 愛媛工場 電話0897-37-1711 |
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今:住友化学工業株式会社愛媛工場歴史資料館の外観
平成13年8月9日撮影
昔:住友銀行新居浜支店の外観(最古級の洋館です)
写真右奥にはカラミレンガづくりの金庫、
その背景に新居浜港の帆柱が見えます。
明治34年(1901)7月撮影
住友史料館所蔵 |
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左の写真は、硫酸用土瓶(どびん)と言って、硫酸の販売用として大正4年(1915)以来使用されていました。
土瓶の容量は27リットルで濃硫酸約40sを入れることができます。
住友化学工業株式会社愛媛工場歴史資料館内に展示されています。 |
硫酸用土瓶(どびん)・籠瓶(かごびん)
平成13年(2001)8月9日撮影 住友化学歴史資料館所蔵 |
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第一次世界大戦中に、住友化学が硫酸と過燐酸石灰(かりんさんせっかい)肥料の製造を開始し、大正4年(1915)初めて製品を出荷しました。
右の写真はその製品を入れていた袋です。 |
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過燐酸石灰(かりんさんせっかい)肥料を入れる袋
平成13年(2001)8月9日撮影 住友化学歴史資料館所蔵 |